小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

再創造された目的

「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、
 朝にはパンで満ち足りる。
 こうしてあなたがたは、
 わたしがあなたがたの神、主であることを知る。」
              

                                                    f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 出エジプト14:13

 

<再創造された目的>      エペソ2:8~10

 今日の箇所の前半は、救われたのは、何によるのかという問いです。人間は、救っていただくためには行いが必要であると考えます。しかし、パウロはその考え方の誤りを教えるために救いと行いの関係についてもう一度ここで確認しています。「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われた」のです。8節参照。行いではなく、信仰のみによる救いの理由は「行いによるのではありません。誰も誇ることがないためです。」9節参照。
神は、自分の力で救いを勝ち取ることができると考える人間の傲慢さを何よりもお嫌いになられるお方です。しかし、高慢な人間も、イエス様を信じることにより新しく造り変えられます。10節参照。
 では、再創造された者の目的は何でしょうか。それは新しく造り変えてくださった神の栄光を現すことです。新しく造り変えられた私たちは自分の生き方を通して、造り主であられる神の栄光を現すことができるのです。つまり、それは私たちがすべてを創造された神を礼拝することです。そして、再創造された人間は、良い行いができるようになるのです。良い行いとは神と共に生きることです。救われる以前は、神と共に生きていなかった者が救われると神と共に生きる者に変えられているのです。しかし、自分を見て、本当に新しく造り変えられたのだろうかと不安になることがあるかも知れません。その時、思い出して欲しいのです。神にとって、あなたは最高傑作品であり、御子のいのちという途轍もなく大きな犠牲により贖われたかけがえのない存在だという事実です。あなたは神から愛されています。
 「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

                          イザヤ43:4参照。
これは、自分だけでなく、同じように神によって新しく造り変えられた(再創造)者はみな神の愛を受けた尊い存在であることを意味しています。もし私たちが互いに傷つけ合うならば、それは創造主に対するものとなります。なぜなら、相手に対する侮辱は、その人を造られた神に対する侮辱となるからです。
これは、実に危険なことです。逆に、神が新しく造られた人を大切にすることは、神を愛することになります。「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」マタイ25:40参照。

私たちは、互いに神に再創造されたもの同士であることを自覚し 、お互いの良いところを見つけ、励まし合い、尊重し合い、同じ目的に向かって共に歩む者になりたいと思います。同じ目的とは、礼拝を通して、神と共に歩み、神に栄光を帰することです。

 

救われた後の私たち

「恐れてはならない。しっかり立って、
 今日のあなたがたのために行われる
 主の救いを見なさい。」
              

                                                    f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 出エジプト14:13

 

<救われた後の私たち>      エペソ2:4~7

 パウロは、救いに与った後の私たちの状態を教えています。今日は、3つのことについて確認してまいりましょう。
① 霊的に死んでいた者がキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらされた。すべての人はアダムにある者として地上に誕生しますがキリストにある者になるには、信仰が必要です。その信仰を私たちは恵みによっていただくことができた者たちなのです。では、恵みによっていただいたものについて考えてみましょう。
② それは悪魔の支配下から聖霊支配下に移されたことです。パウロは、前回、救われる以前の私たちが悪魔の支配下に置かれていたことを記しましたが今、私たちはその悪魔の支配下から自由にされ、悪魔の誘惑に勝利できる者と変えられています。これは死からいのちへ変えられたと言ってもよいほどの大きな変化です。
③ キリストと共にすべてを支配する者と変えられた。キリストが十字架に死に、3日目によみがえられ、弟子たちに現れた後 、天に凱旋し、キリストは神の右の座にお着きになられたのです。そして、その時、私たちもキリストと共に霊的に神の右の座に着き支配者となったとパウロは教えています。これは実に驚くべきことです。神様から呪われた者、滅ぼされても何も文句の言えない者であった私たちが救いに与ると、その立場は180度変えられ、のろいではなく祝福をいただき、死からいのちに移され、神の国の民とされ、御国の相続者とされ、御国で支配する者と変えられていると言っているからです。
 これらの祝福をいただいている自覚があるでしょうか。この世の心遣いで心を一杯にし、肉の欲望のままに生きている場合ではありません。折角、神様からいただいたいのちです。日々のみことばの供給がなければそのいのちは栄養不足になり、元気を失います。逆に、みことばの糧を自分の霊に供給し続けるならば元気を取り戻し、活発に活動し始めます。
 パウロは、常に宣教の情熱とキリストの愛に満たされていました。彼の原動力の源は、みことばです。みことばと共に働いて下さる聖霊様の力によってパウロは迫害に屈することなく、大胆に福音を宣べ伝え続けることができたのです。同じ力と愛を私たちもいただくことができます。なぜなら、私たちは信仰によってキリストと一つにされ、死からいのちに移された者として、将来、御国で支配者となる者たちだからです。ですから、その日に備え、今、自分が所属する教会に仕え、兄弟姉妹に仕え、これから救われる人々に喜んでお仕えする者になろうではありませんか。

 

救われる以前の私たち

「その血は、あなたがたのいる家の上で、
 あなたがたのしるしとなる。
 わたしはその血を見て、
 あなたがたのところを過ぎ越す。」
              

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 出エジプト12:13

 

<救われる以前の私たち>      エペソ2:1~3

 救われた後の状態を正しく認識する最も良い方法は、過去の状態と今の状態を比較することです。パウロは、エペソの教会の兄弟姉妹の救われる前の状態を思い出させることにより、今の状態がいかに恵まれた状態なのかを思い出させようとしたのです。
 パウロはまず、私たちがかつて自分の犯した違反と罪の中に死んでいた者であると述べています。この違反という言葉は、道を踏み外すという意味があります。つまり、人生のただしい道からはずれて歩んでいる人の姿を現しているのです。また、罪と訳されている言葉には、的外れという意味があります。アダムが神様の命令に背いた結果、人間は神様に対して誤った応答をする者になりました。不信、反逆、自己中心、これが罪の本質です。この違反と罪が現わす言葉の状態が救われる以前の私たち人間の姿なのです。
 二つ目は、空中の権威 をもつ支配者(悪魔)に従って歩んでいた者であると教えています。悪魔は私たちの目で見ることはできませんが私たちが生活しているこの世界を支配している存在です。私たちはかつて悪魔の支配下におかれ悪魔の誘惑に負け罪を犯し続けてきた者たちであったことを忘れてはなりません。最後に、パウロは私たちが自分の肉欲に生き、肉とその思いのままを行って…生まれながら御怒りを受ける子らであったと述べています。アダムから罪の性質を受け継いでいるすべての人間は、罪のために、神との人格的交わりを失い、霊的に死んだ状態にあり、みこころを行うことができません。そして、この世の支配者である悪魔の支配下に置かれ、肉欲の虜になっている状態だとパウロは教えているのです。
 パウロもかつて肉欲の虜になって、キリスト者を撲滅させるために躍起になっていた人でした。 私たちもかつて生まれながらに罪の性質をもっている為に、神の命令に背くことしかできない者たちでした。霊的にも、死んだ状態にあり、聖書に書かれてある真理を正しく受け止めることができず、悪魔の誘惑に打ち勝つこともできない無力な者たちでした。神は、私たちの心の中までもご覧になられ私たちの犯している罪に対し怒りをおぼえられるお方です。ですから、私たちは、いつ滅ぼされてもおかしくない状況から恵みによって贖い出された者たちなのです。受けた恵みを感謝しましょう。
 救われる以前の私たちと同じよう に自分の置かれている状態の悲惨さに気づかずに滅びに向かって歩んでいる人たちが沢山 います。彼らの救いのために自分にできることはないか。真剣に祈り求める者になりたいと願います。