小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

みこころの奥儀

「まず神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのものはすべて、
 それに加えて与えられます。」

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<みこころの奥儀>      エペソ1:8~10

 世界のはじまりがあったように世界の終わりも必ず来ます。私たちは、目まぐるしく変化する世の中に生かされていることにより、自分たちが最終的にどこに向かって歩んでいるのか忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。
 世界の終わりについて聖書は、いつその時が来るのか。その事については沈黙します。人間は、いつ世界の終わりが来るのか。知りたいと考えますがその期待に聖書は答えません。それを知ることは人間には許されていないからです。ただし、神は聖書を通して救いに与った者にだけ世界の終わりに何が起るのかを教えてくださるお方なのです。それが今日の聖書箇所に啓示されています。10節参照。「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」最終的にはすべての被造物が御子のもとに集められる日が来ます。その時、本当の意味で罪の問題が解決され、真の和解が神と人との間に、自然界と人との間にもたらされる時が来るのです。いやすでにその和解の業は始まっています。なぜなら、キリストを主として自分の心の玉座にお迎えする時、その人の罪が赦され、神との和解が成立し、人間関係における和解も可能となるからです。
 人間関係における争いの原因は、人間のうちにある罪です。自分が罪人であることが自覚でき、自分の犯した罪を素直に認めることができるようになると、その罪を赦してくださる神のあわれみ深さに目が開かれはじめます。そして、神に罪を赦していただいた者は人に対しても寛容な態度を示すことができるように少しずつ変えられていくのです。地上においては、争いが完全に絶えることはありませんがどちらか一方が救いに与ると復讐し合う関係が変わりはじめるのです。そして、キリストが地上に再び来られる時、すべての人がキリストのもとに集められ、キリストに従い、互いに愛し合う者となり、対立、分裂、争い、憎しみはなくなります。
 世界の終わりに起こる神のご計画は必ずその通りになるのです。なぜなら、世界は神によって創造され、神によって維持され、神によって統治されているからです。人間はその中に生かされている存在に過ぎません。霊的な存在である悪魔や悪霊もキリストによって征服され新しい秩序が樹立されるのです。Iコリント15:24参照。聖書からみこころの奥義を知ることができる人々がさらに増し加えられるように祈りつつ福音を宣べ伝えてまいりましょう。

救いの土台

「天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。
 御国がきますように。」

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ6:9~10

 

<救いの土台>      エペソ1:7

 私たちは、生まれながらに背きの罪の性質をもつ者としてこの地上に誕生します。神様は、最初の人間を罪の性質をもたない完全な者として造られましたが罪を犯す可能性を人間に残されたのです。
人間はどのようにして神様に対して背きの罪をもつ者になったのでしょうか。
創世記3:1~7参照。
 アダムたちは、サタンの誘惑に負け、神様が食べてはいけないと命じられた一本の木から取って食べることを選択したのです。この時から、全人類は背きの罪の性質をもつ者になりました。神様の命令に従って生きることよりも、自分のやりたいように、生きたいように生きる者になることを全人類はアダムにあって選択したのです。そして、全人類は、背きの罪の結果、自分の否を認めずに自分の犯した罪の責任を人や状況や環境に転嫁する者となりました。人間の世界から争いが絶えないのはその為です。
では、人間がその悲惨な状態から解放される道はないのでしょうか。 一つだけあります。それが神様と人間の霊的な関係が回復される道です。その回復の方法として神様が選ばれたものがイエス様の十字架の血による贖いです。この血による贖いとは、罪を一度も犯されなかったイエス様が十字架にかけられ、 血を流されることにより、神様の人間が犯した罪に対する怒りが宥められ、神様の義の要求が満たされ、人間の犯した罪が赦される道が備えられたというものです。
 聖書が教える救いは、客観的な面と主観的な面の二つに分けられます。御子の血による贖いが客観的な面であり、私たちがそれを信じる前に、神は私たちが信じさえすれば救われるようにと、その救いの土台を神様がすえてくださったのです。この救いに関する客観的な裏着けがある宗教はキリスト教だけです。そして、イエス様が自分の罪の身代わりに十字架上で死んでくださったことを信じ、受け入れる時、その人の罪は赦されます。これが救いに関する主観的な面です。神の御子であられるイエス様の犠牲以上に完全なものはありません。罪を一度も犯したことのないお方の血が流されることにより、どんな罪も赦される道が備えられたのです。
 罪の赦しのために、神様が全力、文字通りいのちがけで救いの御業を計画し実行してくださったことを覚えましょう。しかも、その救いは完全な救いです。根拠のある裏付けのある確かな救いです。神様が人類を救うために備えくださったこれらのことを心にとめる時、天の父なる神様と子なるイエス様と聖霊なる神様の御業をほめたたえずにはいられません。

神の予定とその目的

「自分の敵を愛し、
 自分を迫害する者のために祈りなさい。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ5:44

 

<神の予定とその目的>      エペソ1:5~6

 人間が予定を立てる場合、あらかじめ計画した通りにできない場合があります。しかし、神の予定は、その計画した通りになります。私たちの救いもその神の予定によるものなのです。私たちは、自分が救われるまで自分の救いが神のご計画の中であらかじめ定められていたことが分からない者たちでした。私たちには、不思議なことですが神は、御子(キリスト)をとおして、永遠の昔から救う者を選んでくださり、その選びが人間の行動によって変更されるような不確かなものでないことを「あらかじめ定めておられました」5節とのみことばで保証してくださったのです。これは、自分の救いを疑い易い私たちにとって平安の根拠となるすばらしい宣言です。
さらに、私たちが目を止めたい点は神が私たちを「ご自分の子にしよう」5節と、愛をもって、あらかじめ定めておられた事実です。人間が神の子(養子)とされるとは、救いの確かさを決定する上で重要な内容です。
思い出してみてください。神と人間は、もともと親子の関係のないものとして、この世に誕生しました。神と親子の関係を生まれながらにもっておられたのは御子だけです。ですから、旧約時代の神と人間の関係は主人としもべの関係でした。しもべは、主人の顔色を伺いながらいつ主人の怒りにふれ、罰を受けることになるかびくびくしながら生活しなければなりません。実際に旧約時代のイスラエルの民は約束の地を目の前にしながら不信仰の故に荒野で滅ぼされました。しかし御子が十字架にかかられ、人間の罪の罰を代わりに受けてくださることにより、御子を信じる者は、罪を赦され、神のもとに自由に行き来し、交わることが可能となりました。ヘブル10:19~22参照。
さらに、御子を信じた者には神の子という特別な身分と立場が与えられるのです。ヨハネ1:12参照。ですから、新約時代に生かされている私たちは、神と親子の関係に移されています。これは本当に驚くべき恵みなのです。
そして、子どもとされることにより、私たちは神との関係において平安をもつことが可能となりました。なぜなら、私たちが 神の命令に背いても、それによって神との親子関係が解消されることはないからです。
 受けた恵みの大きさを知った者には神の子として生きることが期待されるのです。救われる以前の古い生き方を捨て、御子を通していただいた新しい 命をもって恵みに富まれる父なる神と子なる神と聖霊なる神を礼拝し、御名をほめたたえる者になるという究極の目的を果たす者に日々造り変えていただきましょう。