小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

栄光の神に

「初めに、神が天と地を創造した。」
        
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 創世記1章1節

 

<栄光の神に>           使徒acts 1 2 :1~ 2 5

私たちには、キリスト者として生きることにより、神様に栄光を帰するという 大切な使命が与えられています。愛された者には、愛してくださったお方を愛することが求められるのです。私たちは、イエス様を本気で愛する生き方を選択していると言えるでしょうか。へロデ王に対し、人々は本心を偽った行動をとっていました。2 0~2 2参照。人々は、自分たちが食料を得るためにはへロデ王を神としで祭り上げることに対し罪意識をもたないほど良心が麻陣していたのです。人間を神として崇めることほどまことの神様を冒涜する行為はありません。これは当時の人々だけの問題ではありません。なぜなら、私たちも本心を偽った行動を選択する場合があるからです。特にキリスト者は日本において少数派であり、八百万の神々の存在を認め合う社会において、唯一絶対の神だけを信じる私たちには生き辛さを覚えることが沢山あることは否めません。人々と同じように行動すれば何の支障もなく生活することができるでしょう。しかし、私たちはどのような状況から救い出されたのかを思い出さなければならないのです。私たちは、救われる以前、まことの神様以外のものに心を支配させ、それらのものの奴隷となり、罪を犯し続けてきた者たちです。ヘロデ王の心も、欲望に支配され権力を乱用していたのです。しかし、民衆の支持がなければその権力の座に居座り続けることはできません。ヘロデがユダヤ人のご機嫌を取ろうとしたのはその為です。私たちは、為政者たちと民衆の上におられるまことの主権者であられる神様を信じている者たちです。ですから、国家権カや世俗の力に媚びることなく、まことの神様だけを恐れ、神様が命じられることを,選択する者にならなければなりません。そして、自分がへロデ王と同じ心の状態になることもあり得ることを覚えましょう。私たちは弱い者です。油断していると本来神様だけに帰されるべき栄光を自分が受けることを許してしまうことがあるからです。人から称賛されたい。人々の注目を浴びたい。ヘロデ王は、神様に栄光を帰することを怠ることで自分の身に死を招くことになったのです。それとは対照的に使徒ヤコブは、まことの神様だけを信じる信仰の故に迫害に合い殉教することで自分の信仰を表明し、神様に栄光を帰したのです。ローマt4:7~l2参照。私たちは、自分の生き方が神様に栄光を帰すことに繋がっているかどうかを常に自問自答しながら、みことばに従って生活することを選択してまいりましょう。

 

愛の実践

「精霊があなたがたの上にのぞまれるとき、
 あなたがたはちからを受けます。そして、
 ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、
 わたしの証人となります。」
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 使途1章8節

 

<愛の実践>           使途acts 11:27~30

初代教会は、愛を実践していました。なぜなら、飢饉が起きた時、エルサレム教会に献金を届けることを決断したからです。アンテオケ教会は、生まれてまもない教会でした。集う人々もそれほど多くはなかったことでしょう。しかし、彼らは多くの犠牲を覚悟で献金を用意しその献金バルナバパウロの手に委ね送り出していきます。アンテオケからエルサレムまで約5O0キロの道のりです。愛のわざは、困難を乗り越え、行動に現われます。当時、旅することは、あらゆる危険のともなうものであり、飢饉が起きている状況下、さらに危険が増すはずです。目に見える十分な護衛もなく、献金を届ける重要な使命があり、エルサレム教会の兄弟姉妹のいのちが自分たちの働きにかかっている神様の守りを祈らずには一歩も進めない状況です。
この時の状況と東日本大震災の出来事が重なります。被災地がどのような状況か分からない中、教団は、いち早く行動を起こし、献金と物資を載せ、車を被災地に走らせたのです。被災地で助けを必要としている兄弟姉妹が待っている。教団が本当に愛のある群れであるかどうかの真価が問われる事態です。この教団に所属していて良かった。当時、支援を受けた教会は、心底思ったことでしょう。そして、被災した経験のある人々は、自分たちが受けた愛のわざに感謝して同じような状況が起きたならば、今度は自分たちが支援する側になる番だと考えます。神様は、私たちに愛を実践する者になることを期待されています。神様は、ご自身で助けを必要とする人々を救うことがおできになるお方です。しかし、あえて私たちを遣わし、愛のわざを実践する機会を与えてくださるお方なのです。Iヨハネ3 :1 6~ 17参照。
エス様も、言われました 「互いに愛し合いなさい。」私たちが互いに愛し合うことは、イエス様のご命令です。従っても従わなくてもどちらでも良いものではありません。選択の余地はないのです。私たちは、目に見える兄弟姉妹を愛することにより、目に見ることのできない神様を愛していることを実証することになります。なぜなら、目に見えるところの兄弟姉妹を愛することが神様のご命令だからです。目に見える兄弟姉妹を愛する人は、目に見ることのできない神様を愛していることになります。なぜなら、愛するとは、神様のご命令に従うことだからです。神様から与えられた機会を活かし、愛の実践に挑戦してまいりましょう。

ふたつの大切な勧め

「彼らの目が開かれ、
 イエスだとわかった。」
              
                

                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ24章31節

 

<ふたつの大切な勧め>         使途acts 11:22~27

バルナバは、救われたばかりのアンテオケの兄弟姉妹に二つのことを勧めていま す。一つ目は、心を堅く保つことです。ここに勧められている心を堅く保つとは、自分の力で信仰を堅く保つように努カするようにという意味ではありません。それぞれが与えられた信仰を公にして自分の立場をはっきりと表明して生きるようにという意味なのです。初代教会の人々も、現代の私たちもこの点は、同じであると言えるのです。自分がイエス様を信じたことを公にすることはキリスト者にとってとても重要なことです。洗礼準備会でも学びますが自分がイエス様を信じたことを表明することにより、私たちはいろいろな誘惑から守られることになるのです。私たちは、自分の与えられた信仰を隠してはなりません。信仰は、私たちにとっ て宝です。これ以上にすばらしいものはありません。 なぜなら、信仰は自分を罪の力から解放するだけでなく、家族や友人や知人だけでなく時代を超えてあらゆる国の人々を罪の支配から解放してきたものだからです。そして、自分の信仰を表明して生きることにより、私たちは、さまざまな誘惑からも守られることになります。 初代教会の人々も、救われる以前の生活に戻されてしまう誘惑の多い環境に生活していたのです。偶像崇拝の盛んなアンテオケの都市です。その町に住んでいた兄弟姉殊にバルナバは、自分の信仰を表明して生活するように勧めたのです。そして、 バルナバの勧めを実行したアンテオケの兄弟姉妹は、人々からキリスト者と呼ばれるようになります。バルナバが勧めた二つ目のことは、主に留まることです。主にとどまるとは、イエス様に繋がり続けること、つまりイエス様が生きられたように生きることです。イエス様のように生きるには、イエス様がどのようなお方であり、どのように生きられたお方なのか知る必要があります。イエス様を見ると、神様が完全に義なるお方であり、同時に完全に愛なるお方であることが分かります。イエス様は、罪を憎まれましたが、罪を犯してしまう人間を愛され、ご自身を犠牲にして人間が救われる道を作ってくださったお方です。イエス様が私たちの罪を赦してくださったように、私たちもイエス様にならい、人に対し赦しのわざを実行できるように日々祈りつつ、みことぱに従って神様の喜ばれることを選択し神の子としての生活を現すものに変えていただきましょう。