小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

救霊の情熱

「これは、わたしの契約の血です。
 罪を赦すために多くの人のために
 流されるものです。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ26:28

 

<救霊の情熱>       使徒21:15~26

 パウロは、エルサレムに到着するとヤコブのもとに足を運びその場にいた長老たちに宣教報告をします。長老たちは、パウロの報告を聞き、神をほめたたえます。しかし、長老たちには心配事があったのです。パウロが来たことにより騒動が起るのではないかという危惧です。21節参照。ユダヤ人にとって律法(割礼)を守ることは重要な事であり、彼らの心の拠り所になっていました。パウロの割礼を軽視する発言(ガラテヤ5:1~6)を見逃すことができない人々がいたのです。27~28参照。長老たちは、パウロに対する疑惑が根も葉もないことを証明するための方法を提案します。23~24参照。パウロには、長老たちの提案を拒否する権利と自由がありました。しかし、パウロは素直に従うのです。自分に与えられている自由を同胞(ユダヤ人)の救いのために喜んで制限することを選択します。パウロにとってユダヤ教の儀式を守ることは救いの条件ではなくなっていました。それはエルサレム会議でも確認された事です。使徒15:23~29参照。しかし、一部のユダヤ人たちにはパウロの発言が赦し難いものであり、なんとかして排除しようと企みます。ちょうどイエス様が祭司長、律法学者、パリサイ派に属する人々から憎まれたのと同じです。闇は、光の存在を嫌う傾向があるからです。パウロは、同胞の救いの妨げとなる疑惑を晴らすために長老たちの提案を受け入れます。26参照。パウロの行動は、同胞の救いを心から熱望する愛から出たものでした。ローマ9:1~3参照。ユダヤ人にはユダヤ人のように。Ⅰコリント9:19~20参照。
 パウロは、イエス様に出会い、イエス様を救い主として信じることにより、イエス様と一つにされ、律法ののろいから解放されていました。なぜなら、律法はイエス様によって完全に成し遂げられ、もはや人間を束縛する力を失っていたからです。ガラテヤ3:8~13参照。律法ののろいから解放されたパウロは、愛が律法を全うすることを自分の生き方を通して兄弟姉妹に教えようと努めます。
 私たちも救われていない家族や友人や知人の救いのために本気で祈り、自分に与えられた権利や自由を喜んで制限し、喜んで仕える者になり、イエス様の愛を伝える者になりたいと願います。イエス様の弟子たちに対する愛は実を結び、パウロや弟子たちをいのちがけで宣教する者に変え、喜んで神と人に仕える者に変えました。どんな頑な心も愛(救霊の情熱)によって打ち砕かれることを信じましょう。ピリピ2:1~11参照。

使命に生きる

「わたしに来る者は、決して飢えることがなく、

 わたしを信じる者は、どんなときにも、

 決して渇くことがありません。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ6:35

 

<使命に生きる>       使徒21:1~14

 私たちは、日々の生活の中で自分に与えられた使命を果たすことに困難を覚えることがあります。パウロエルサレムに行くことがみこころであると知っていましたが兄弟姉妹から度々引き留められると使命に対する決心が揺らいだのです。
 試練は、私たちから求めるべきものではありません。イエス様も、弟子たちに「試みに会わせないでください」と天の父なる神様に祈るように教えています。しかし、必要であれば神様の方で私たちに試練を与えられるのです。パウロにとって、エルサレムに行くことは神様のご計画であり、彼がこの後、ローマに行くためにもどうしても通らなければならない通過点であったことが分かります。ちょうど十字架を前にイエス様がゲッセマネで祈られたようにパウロも試練を前に神様のみこころを求め、備える時間が必要だったように。
 神様に敵対するサタンは、主の使命を果たそうとする者を誘惑します。パウロの場合、パウロを愛する兄弟姉妹を通して宣教の働きを妨害しようと働きます。最初の誘惑は、ツロの町で船の積み荷を降ろしている間にパウロを襲います。ツロの兄弟姉妹は、パウロエルサレムに登らないようにと忠告したのです。パウロは、ツロの兄弟姉妹の忠告を退け、エルサレムに向かって旅立ちます。パウロたちがカイザリヤのピリポの家に滞在している間に預言者アガボユダヤから下って来ました。このアガボは、以前、飢饉が起こることを預言した人物です。そして、ここでもパウロのこれから受ける苦難について預言しています。11節参照。アガボの預言を聞いた兄弟姉妹は、みなでパウロエルサレム行きをやめるように頼みます。これが二度目の誘惑です。しかし、パウロは自分に与えられた使命を忘れることなく、兄弟姉妹の説得を振り切り、使命に生きることを表明します。13節参照。
 パウロの姿とゲッセマネで祈られたイエス様の姿が重なります。十字架を前にしてイエス様は、3度天の父なる神様に祈られました。マタイ26:36~46参照。私たちは主のために苦しむ道を避け、自我の声に従い生きよと囁くサタンの誘惑の声に心を揺さぶられることがあります。パウロは苦難の後に与えられる義の栄冠(Ⅱテモテ4:8)をいただくために、自分の果たすべき使命を喜んで担わせていただこうとすべてを天の父なる神様におゆだねし、エルサレムに向かい出発したのです。同じように私たちも、パウロが歩んだようにその歩みに倣い、苦難の道を喜んで選択できるように祈り求めてまいりましょう。

御霊によって歩む

「恐れないで、ただ信じていなさい。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マルコ15:36

 

<御霊によって歩む>       ガラテア5:13~26

 私たちは、救われた後も救われる以前の肉の性質があり、常に御霊(聖霊 )に満たされていなければすぐに肉の思いに心が支配され、考え方や生き方が救われる以前のものに戻ってしまいます。パウロはガラテヤの教会の兄弟姉妹が召されたのは自由を与えられるためであると教えています。では、何からの自由なのでしょうか。それは罪の力からの自由です。
 人間は、生まれながらに罪の性質をもち、サタンに誘惑されるがままもろもろの罪を犯し続けている者です。聖書が言うところの罪とは、自己中心です。 私たちの人生から争いが絶えることはありませんがその争いの原因は罪(自己中心)なのです。自分が正しく相手が間違っていると互いに考えている限り本当の意味での和解は成立しません。争いの絶えない状況の中で絶望の中でキリストと出会い、聖霊を心の王座にお迎えすることにより平安をいただくという恵みに与ります。しかし、心のうちに与えられた平安もずっと続くわけではなく、再び心の中が憎しみやねたみの思いに支配され、救われる以前の悪習慣に逆戻りすることもあるのです。どうしてなのでしょうか。それは、救われた後も私たちの心の中に古い自我が残っている為です。
 パウロは、自分の心の中の葛藤を正直に告白します。ローマ 7:22~25参照。聖霊と自我は、絶えず、私たちの心の中で対立しています。私たちは、日々、どちらの声に従うかを選択しているのです。ある時は、聖霊の声に従い、ある時は自我の声に従って生活しています。私たちが失敗する時、後悔する時は自我の声に従っている時です。
 パウロの結論は、結局のところ「御霊に導かれなさい」です。御霊に導かれるとは 、御霊に心の王座を明け渡し、御霊にすべてをおゆだねすることです。私たちは、自分でなんとかしようとする時に失敗します。自分の好きなようにやりたいように生きるならば救われる以前の肉の欲望のままの生き方に戻ってしまいます。ですから、私たちは自分の心の王座を常に御霊に明け渡し続ける必要があるのです。神様は、私たちを罪の力から解放してくださっただけでなく、御霊にすべてをおゆだねすることを求めておられるのです。私たちに罪を犯させようと誘惑するサタンに打ち勝つ唯一の道は、御霊におすがりすることです。そこに勝利の生活がはじまります。そして、私たちの心が御霊に支配され、同じ主にある私たちが心を一つにして祈る時、そこに一致が生まれ、教会にみこころが示されるのです。2018年度の教会の歩みが御霊によって進められるように共に祈り続けてまいりましょう。