小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

すべてを益と変えてくださる主

「彼らの信仰を見て、イエス
 『友よ。あなたの罪は赦されました。』
 と言われた。」


                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ45章20節

 

<すべてを益と変えてくださる主>       使徒15:36~41

 エルサレム会議の後、パウロバルナバにこれまで宣教してきた教会を訪問しようと提案します。初めの伝道旅行からすでに3年の月日が経過していました。しかし、そこで大きな問題が起こったのです。その問題の原因は、マルコを伝道旅行に同伴させるか、させないかということでした。バルナバは、マルコと親戚関係にあり、最初の伝道旅行にマルコを同伴させたのもバルナバでした。しかし、パウロはマルコを同伴させることに反対し、バルナバパウロの間に激しレ反目が生じたのです。パウロの言い分は、最初の伝道旅行の際に身勝手な理由で宣教の働きから退くことを決断したような者は伝道者として失格であるということでした。確かに、困難なことに直面する度に宣教の働きを放棄するような者を同伴させるわけにはいきません。しかし、バルナバは慰めの子と呼ばれる人であり、一度失敗したからと言って伝道者として失格であると烙印を押すことをせず、チャンスを与え、マルコを伝道旅行に同伴させ、彼を一人前の伝道者に育てようと考えたのです。パウロバルナバもそれぞれ自分の意見を変えることができなかったのです。
パウロたちも私たちと同じ弱さをもつ人間です。頭でこうすべきだと分かっていても、それを実行することは容易なことではありません。晩年のパウロであれば、バルナバの提案を素直に受け入れることができたかも知れません。しかし、宣教の使命に燃えていたパウロは、バルナバの意見に同意することができず、別々の道を進むことになったのです。自分の考えが正しく、相手の考えが間違っていると互いの主張を受け入れ合うことができない事態は二人の人格の未熟さを露呈することになりました。しかし、神様はこの不測の事態を通して、宣教と牧会の働きがさらに力強くなされるようにしてくださったのです。なぜなら、この後、バウロはシラスを同伴者として選び、さらにテモテを伝道旅行に同伴させ、二人を傍において訓練し、彼らを主に仕える教師に育て上げることになるからです。バルナバも、マルコを同伴者として選び、彼の指導にあたりマルコを主に仕える教師に育てあげます。
神様は、 人間のいざこざでさえも益と変えてくださり御国の建設の実現のために用いてくださるお方です。私たちは、欠けの多い者たちであり、失敗することも多々あります。 しかし、神様はそんな弱い私たちを忍耐し続け人格的に霊的に成長することを期待してくださいます。すべてを益と変えてくださる主を信頼し、主の与えてくださる試練を感謝し受け入れ、教会に仕え、共に宣教する群れになろうではありませんか。 

聖霊と私たち

「まことに、まことに、あなたに告げます。

 人は新しく生まれなければ、

 神の国を見ることはできません。」


                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ3章3節

 

聖霊と私たち>           使徒15:22~35

 使徒の働きを注意深く読んでみると至ところに聖霊様の名が登場していることが分かります。そして、イエス様の弟子たちによって広められた宣教の背後には、常に聖霊様の存在があり、その聖霊様の働きが今も続いていることを覚えたいと思います。そうでなければ、弱い弟子たちが迫害を恐れずに大胆に宣教し続けることはできなかったはずです。初代教会は、いつも聖霊様を意識して宣教に取り組んだのです。教会の歩みは、聖霊様と共に進められるものです。力づよく宣教するためには、健全な教会が形成される必要があります。健全な教会とは、人間中心の教会ではなく、聖霊様が中心になっている教会のことです。
初代教会は、自分たちだけで相談し教会の歩みを決めていたわけではありません。彼らの話し合いの中心にはいつも聖霊様がおられ、みことばをもって聖霊様が彼らにみこころを示し、一致を与えられたのです。人間の救いの条件は信仰のみでよいという初代教会の決議は、彼らの考えではなく、聖書から導き出された結論でした。ですから、誰ひとりその決議に反対する者はいません。それは現代も同じです。

教会の歩みは、牧師や役員の一部の意見によって進められてはなりません。大切なことを決断する時、教会では 必ず教会総会を招集し、そこで十分な話し合いがなされ、最終的にみことばにより示されたところに従って決議することになります。反対者がひとりでもいるならば強引に話を進めてはいけません。これはとても大切な点です。世の中は、多数決で物事が決められてしまうところがありますが教会は人数の多さではなく、聖書が何と言っているか。聖書の示す真理によって判断し、決断することが必要なのです。教会において一致ほど重要なことはありません。サタンは、一致の重要性を知っている故にあらゆる方法で教会の一致を妨害しようと働きかけてきます。教会において一致ができない背景には、みこころよりも、みことばよりも、自分の意見の絶対化があったり、自分のメンツやこだわりなどが一致を妨げている場合が考えられるのです。私たちは、いつも謙虚さを忘れずに互いの意見を冷静に受け止め合う者同士に変えられていきたいと願います。また、私たちは、先に救われ信仰の戦いをしてきた者たちです。同じようにこの世の誘惑と今戦っている兄弟姉殊に対し、上からではなく、同じ弱さをもつ人間としてみことばによる励ましを与え、共に祈り合う群れでありたいと願います。聖霊様がいつも私たちの間に共にいてくださり、聖書のみことばを通して、私たちにみこころを教えてくださることを期待して共に宣教の業に参加していこうではありませんか。ヨハネ14:12~31参照       

 

救いの条件

「神は高ぶる者を退け、
 へりくだる者に恵みをお授けになる。」


                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヤコブ4章6節

 

<救いの条件>           使徒acts15 :1~21

 パウロたちがアンテオケに滞在している間にある事件が起こりました。 その事件とは、キリスト教にとってとても重要な意義のあるものです。1節参照。1節のある人々とは、おそらくエルサレムから来たユダヤ教主義的な人々であると考えられます。なぜなら、彼らはユダヤ教にとって一番重要視されていた律法を守り、割礼を受けることを救いの条件として人々に教えたからです。パウロバルナバは、この状況を黙って見過ごすことができません。なぜなら、パウロは、救われるための条件は信仰のみでなければならいと確信していたからです。パウロが信仰のみによる救いを教えるために書いた手紙を開いてみましょう。ガラテヤ2:15~2 1参 照。

この手紙でパウロは、信仰による義を主張します。パウロはイエス様に出会うまで信仰による義ではなく、律法による義を信じていた人でした。しかし、パウロ は律法による義ではなく、信仰によって義と認められるのだと断言する者になります。パウロがそのように救いの条件を提示することができたのはなぜでしょうか。それはパウロキリスト者を迫害する最中に強制的にイエス様に捕えられ、自分の罪深さを知らされ、信仰を与えられ、霊的に新しく造り変えられたからです。使徒9章参照。神様は、ユダヤ人が長い間抱いてきた固定観念を初代教会の指導者たち (ペテロ、パウロバルナバ、)が体験した生きた証を通して打ち砕き、だれもが信仰のみで救いに与る時代が訪れたことを彼らが認められるようにしてくださったのです。私たちが神様からいただいている恵みに感謝する思いから喜んでみことばに耳を傾けるならば、神様はその人に真理を理解し受け入れ、真理に従って生きることのできる信仰を与えてくださいます。誰でも、イエス様のもとに十字架のもとにへりくだるならぱ救っていただけるのです。どんな罪も、イエス様の流された血によってきよめられる恵みの時代が訪れました。 イエス様の犠牲の完全さを信じて、大胆に御前に自分の犯した罪を告白し、その罪を赦された感謝の思いに満たされて新しい週の歩みをはじめてまいりましょう。私たちが罪を赦された喜ぴに満ちるならばその変化は家族にも伝わります。イエス様のいのちがけの愛をいただいた者として、そのいただいた愛によって自分を愛し、家族を愛する者に変えられていこうで はありませんか。律法を守ることにより義とされる者はひとりもいません。人が救 われるのは、100パーセント信仰(恵み)によるものです。イエス様の流された血の完全さを信頼し、天の父なる神様がイエス様の流された血をご覧になられ、満足され、人間の罪を赦すことができたことを信じましょう。ローマ5 : 6~9参照