小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

キリストの奥義

 

<キリストの奥義>          エペソ3:1~6

 パウロは、三章の冒頭で自分を異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となったものであると紹介しています。異邦人のためにとは、どういう意味でしょうか。それは、パウロユダヤ人からいのちを狙われ続けてきた理由を思い出していただければ分かることです。それは、彼が異邦人も信仰のみで救われると教えていたからです。ユダヤ人が長い間いのちがけで守り続けてきた律法を救いの条件からパウロははずしユダヤ人も異邦人も同じように十字架に架けられ殺され、3日目によみがえらせたキリストを主として信じるならば救われると宣べ伝えていた為に、ユダヤ人の反感をかい、命を狙われ、裁判にかけられ、 捕らわれの身となっていました。
ユダヤ人は、神の選びの民であり、神の祝福を継承する優れた民族だという自負がありました。偶像に仕えて罪を犯し続けてきた異邦人たちと一緒にされたくない。そして、何より神が異邦人との交わりを禁じてきたではないかと反論したい思いがあったはずです。どうして急に異邦人を家族として迎え、共に生きることを求めるのか。納得いかない部分があったはずです。しかし、神が決められたことを造られた者である人間が拒否する権利はありません。親の権威が認められなければならないように神の権威はそれ以上に絶対です。子どもは、親に従うことが命じられているように神に従うことが求められるのです。そして、神は、子どもとされた私たちが互いに受け入れ合い、仕え合うことにより霊的に人格的に成長し大人になることを望んでおられます。
私たちは互いに受け入れ合っているでしょうか。キリストの奥義とは、ユダヤ人だけでなく異邦人もはじめから共に救いのご計画に入っていたという点です。私たちはだれが救いに選ばれているか分かりません。自分の好き嫌いではなく、誰に対しても救いの門は開かれていることを覚えたいと思います。自分が福音を届ける相手を決めるのではく、祈りつつ神様が出会わせてくださった人々に福音をお伝えする者になろうではありませんか。
キリス トがユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁を打ち壊してくださったことを覚え、私たちも人に対する偏見を捨て、差別することをやめ、だれに対しても平等にお仕えし、キリストの愛を現す者になりたいと願います。何より主にある兄弟姉妹に対し主にある家族としてどう関わるべきか祈りつつ神様のみこころを求め、互いに愛し合う関係を構築する努力を続けてまいりましょう。

 

いつまでも残るもの

「力ある勇士よ。 
 主があなたとともにおられる。 」  
              
                                                            f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 士師6:12

 

<いつまでも残るもの>          Ⅰコリント13:8~13

 パウロは、愛のすばらしさを評価するにあたり、永遠性という物差しを用います。私たちはいつも目の前の問題に心が奪われ、動揺し、出来事を永遠という物差しで評価することを忘れるものです。仕事、結婚、失業、受験、病、死など私たちは、日々、いろいろな問題に直面します。問題に十分備えることのできる場合もあれば、突然自分の身に迫って来る失業や病や死もあります。それらの問題に対し、どのように向き合うか。考えてみる必要があるのです。
 コリントの教会には、異言を語れる者が異言を語れない者を見下し、逆に異言を語れない者は、異言を語れる者に対し、ねたみ、ひがみ、互いに裁き合う状況がありました。コリントには、異言を熱心に求める人々がいたようです。そこでパウロは 、彼らが必死になり求めている異言を永遠性という物差しで測り直し、それらのものがやがて消え去るものであることを明確にします。同じように、私たちも地上における地位や名誉や財に心が奪われることがあります。私たちが日々、追い求めているものは、やがて消え去るものか。それとも永遠に残るものか。仕事も家庭も楽しみも人生にとって重要です。しかし、永遠性という物差しを当てずに、それらのものが第一のものであるかのように熱中するなら、それは賢い生き方であるかどうか考えてみる必要があるのです。
 聖書は 、永遠に残るものとして、信仰と希望と愛をあげています。その中で一番すぐれているのは愛です。私たちは、その愛を熱心に求めているでしょうか。その愛とは、神への愛です。人への愛です。私たちは、天の父なる神様から日々、溢れるばかりの恵みをいただいています。もし今の生活に感謝がなく、不平や不満があるとするならばそれは自分の心が神様から離れ、自分の心が目の前の問題に向けられ、心に平安を失い、有限な物差しで物事を評価しているという事が考えられるのです。ですから、私たちは、いつまでも残るものに目を向け続ける者でありたいと願います。サタンは常に私たちの心を地上のことに有限なことに向けさせようと必死に働いていますがその働きに惑わされてはいけないのです。
世の人から見たら価値のないように見えることの中に本当に価値のあるものが隠されてあることを覚えたいと思います。それが十字架です。いつまでも残るものは、十字架に示された神の愛です。私たちもその神の愛を熱心に追い求め、その愛に応答し神を愛し、人を愛する者になろうではありませんか。

 

贖いによる救い

「私と私の家は主に仕える。 」  
              
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<贖いによる救い>          ローマ3:23~24

 救いについて教える宗教は、キリスト教以外にもいろいろあります。しかし、その救いが 「贖い」に結びつけられている宗教は、キリスト教だけです。今日は、救いにおける「贖い」がどういうものなのか共に考えてまいりましょう。
 贖いとは、もともと奴隷市場で使われていた言葉です。奴隷市場で競売にかけられた奴隷を、代価を払って自分のものにするという意味から使われていた言葉が贖いです。その言葉をパウロは奴隷を代価を払って自分のものにするという意味ではなく、旧約聖書の中で人間が犯した罪の身代わりに動物が犠牲として捧げられ人間の犯した罪が赦されるという意味で贖いという言葉を使用しています。旧約時代は、動物が人間の罪を贖うために捧げられてきましたが、それは御子であられるキリストの十字架の犠牲を予表したものだったのです。
天の父なる神様は、アダムたちの恥をおおうため、皮の衣を作るために動物の血を流されたように、私たちの罪を贖うために、イエス様を十字架に架けることにより、イエス様の尊い血を流させてくださいました。それほどまでに、天の父なる神様は子どもである私たちを愛してくださっているのです。罪ある私たちの救いの根拠は、キリストの贖いにあります。そして、罪の赦しは、ただ、イエス様の十字架を受け入れること、そのことだけです。イエス様は、罪の性質をもつ私たちに代わって律法を完全に守ることにより 、きよい生贄としての条件を満たされ、罪の贖いを成し遂げ、人が御前に義とされる道を備えてくださいました。聖書は、救いは報酬ではなく、恵みにより与えられるものだと宣言します。
 恵みとは、それを受けるに値しない者が受ける神からの不当な祝福です。本来 ならば罪人である私たちが義と認められることは100パーセントありません。義なる神様の御前に罪人である私たちが出ることは滅びを意味しています。しかし、今、こうして御前で礼拝することが許されているということは、罪が贖われて義と認められている証拠です。
宗教改革者ルターは今朝の聖書箇所のみことばから人間は、行いではなく、
「ただ 、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」という真理に出会うことができました。最後に残るものは、みことばの真理です。どのような時代になったとしてもみことばの真理に堅く立ち、贖い主であられる主の十字架を仰ぎつつ、御前に歩む者でありたいと願います。