小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

召しにふさわしく歩む

「神へのいけにえは、砕かれた霊。
 打たれ 砕かれた心。
 神よ あなたはそれを蔑まれません。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 詩篇51:1

 

<召しにふさわしく歩む>    エペソ4:1~3

神の召しの目的は、神が選ばれた人々を御国の民とし、キリストのからだである教会にその人を主にある家族として加えることです。では、キリストのからだの目的は、何か。それは神のご計画の中で、教会を建て上げることにより、神の栄光を現すことです。その目的を果たすために、教会のメンバーはこの世から召し出され、御霊の助けによって唯一のまことの神を告白し、洗礼に与り、主なる神をアバ父と呼べる特権に与ります。つまり教会は壮大な神のご計画に参与するために、同じ御霊の働きによって召し集められた者の共同体なのです。1章から3章の内容要約。

では、召された者がその召しにふさわしく歩むために、パウロがあげた4つの徳についてみてまいりましょう。

一つ目は謙遜です。謙遜を身につけるには自分が造られた者にすぎないことを知ることです。そのことを知るなら、造り主であられる神の御前に謙遜にならざるを得なくなるのです。なぜなら、私たちは神に絶対的に依存しているからです。

二つ目は柔和です。柔和とは、自分の本能や情熱や行動を制御すること、制御を自制と言い換えてもいいでしょう。なぜなら、自制できないのが罪人である私たちの現実であり、自制できるようになるには、心の王座を主に明け渡すことが必要です。

三つ目の寛容は自分の罪が神に赦されていることを常に自覚し感謝し自分が赦されたように人に対しても寛容を示すことを選択することです。

四つ目は愛による忍耐です。この愛は神の愛です。神の愛は、自分の敵をも愛することのできる愛です。無条件の愛、無限に相手を赦し、相手を丸ごと受け入れる愛です。この愛を神様からいただくことにより、私たちは互いに受け入れ合い、忍び合うことが可能となります。

では、パウロが『召しにふさわしく歩む』ために勧めた4つの徳の次に記した言葉に目を向けてみましょう。3節参照。<br> それは平和です。この平和は、神との平和と人との平和です。この平和は、すでに教会に与えられているものです。私たちが所属している教会には、この「平和」が与えられています。そして、この平和が教会の一致の基礎になるのです。一致を保つことは容易なことではありません。一致を保つには「熱心さ」が必要です。私たちがパウロの勧めに従って、御霊の助けを頂いて互いに成長し謙遜と柔和を身に付ける者となり、寛容を示し、互いに愛をもって忍び合うなら、そこに御霊の一致が保たれます。そして、御霊の一致を保つ者同士は、平和の絆で結び合わされ、協力して宣教の働きを推し進める教会となるのです。  

 

神に栄光を帰する者となる

「あいするものたち、
 じぶんでふくしゅうしては いけません。
 かみのいかりにゆだねなさい。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ローマ12:19

 

<神に栄光を帰する者となる>    エペソ3:20~21

 創造主を礼拝することは、人間が造られた第一の目的です。生まれながらの人間は、罪をもっている為、霊的に死んだ状態にあるので、本当の意味で創造主を礼拝することができません。しかし、神はまことの神以外の者を礼拝していた私たちを救い出し、霊的に新しく造り変え、永遠のいのちを与えてくださったのです。死からいのちへ、滅びから永遠のいのちに移された者が救ってくださった神を礼拝するのは当然です。礼拝を疎かにするとき、私たちの日常が神中心から人間中心、つまり自分中心に戻ってしまいます。自分と神との関係が整えられるならば結果はおまけでついてきます。神は、自分の間違いを素直に認め、神のもとに立ち返る者を赦し、神との関係を回復させてくださり、神からの祝福をいただけるようにしてくださるお方です。
パウロは自分がキリストに出会ったことを本気で喜び、どんな苦難に対しても肯定的に積極的に受け止め、信仰故の苦しみを光栄なこととして受け入れ、自分に与えられた使命のために全力を尽くしサタンと闘い続けます。一週間に一度、せめて一時間だけでも主の前に静まる時をもつなら、主のみこころを求め、主に従う決意をするなら、サタンの誘惑に簡単に惑わされなくなるのです。私たちは弱い存在です。神のことを考える時間さえないほどに忙しく働き、疲れ果て、霊的にも肉体的にも満たされていない状態でいるならばサタンの誘惑に負けてしまうのは当然です。自分がいかに弱い存在であることを自覚しているならばどんな犠牲を払ってでも礼拝を守る決断をしようではありませんか。
 パウロは、宣教する中で神を第一にする人々が祝福されるのを一番身近に見ることのできた人です。パウロはアジア全域に宣教し、「神のご計画のすべてを、余すところなく知らせた」と言い切ります。使徒20:26~27参照。そのパウロがエペソの教会の兄弟姉妹をはじめアジアに住む異邦人たちが福音を受け入れ、キリスト者と変えられる姿を見て、神様のなさる救いの御業を思い出し、主を褒めたたえます。20~21節参照。パウロは、自分がした福音宣教を自分の功績であるなどと少しも思い上がることなく、すべてが神様の御業であると主に栄光を帰しています。
 私たちもただ神の一方的な選びの故に救いに導かれ、神の約束の故に信仰が守られていることを感謝し、毎週、共に集まり、神を礼拝することを通して神に栄光を帰する者になりたいと願います。

 

キリストの愛を知る者となる為に

「神に信頼し私(わたくし)は何も恐れません。

 人が私(わたくし)に何をなし得るでしょう。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 詩篇56:11

 

<キリストの愛を知る者となる為に>    エペソ3:17後半~19

 キリストの愛を知るためには、愛に根ざし、愛を基とした生活をしなければならないとパウロは教えています。植物が元気に成長するために一番重要なことは、やはりその植物が植えられる土壌です。また、建物も土台が弱いと地震に耐えることができずに崩壊してしまいます。同じようにキリスト者の生活も何に根ざし、何に基をおくか十分に考えなければなりません。パウロは、それを愛だと教えます。
 愛に根ざした生活とはキリストご自身に見られる愛の実践です。イエス様は、どこまでも寛容なお方であり、だれに対しても親切なお方でした。私たちは、どうでしょうか。人に対して寛容でしょうか。では、どうしたら寛容な者になれるのでしょうか。それはイエス様が自分に対してどれほど寛容に接してくださっているかを知り、イエス様から赦されていることを日々の生活の中で体験することです。霊的に成長すると自分さえよければ他の人が苦しんでいてもなんとも思わないということはありません。愛の反対は無関心であると言われる所以はそこにあります。
 では、自分さえよければいいという自己愛から解放されるために必要なことは何でしょうか。それはキリストに自分の心の王座に明け渡すことです。その時、キリストとのいのちの交流がはじまり、キリストから愛されていることを知り体験すると、自分さえよければいいという自己愛から解放されます。そして、その人の内なる人が成長すると意識せずに自然に隣人に対し愛のわざを実践できるように変えられるのです。マタイ25:31~40参照。しかし、常に愛のわざが実践できるためにはキリストに繋がり続ける必要があるのです。ヨハネ15:5参照。そして、私たちは、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることを追い求める者でありたいと願います。
 キリストの愛は、人知を超えているので自力で知ることはできません。しかし、私たちの心の王座にキリストが住んでくださる時、その人はキリストの愛の業を実行できるようになり、神の満ちあふれる豊かさにまで、満たされる者となることができるのです。神の満ちあふれる豊かさとは、キリストのうちに現わされた愛と聖と義と真実という神の属性です。私たちが生けるキリストに信仰により結び着く時、自己愛に打ち勝ち、自分を犠牲にして愛のわざを実践できるようになり、神の属性である愛と聖と義と真実が私たちのうちに増し加えられるのです。