小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

御国の民として

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ルカ5:32

                                  

<御国の民として>     マタイ7:12

 

 御霊に満たされて隣人を愛するとは、具体的にはどうすることなのでしょうか。その事を思い巡らす時、殉教したステパノの姿が思い出されます。ステパノの心は、御霊様に支配されていたのです。だからこそ、自分に対して敵意を抱き、殺意をもって石を投げる人々の救いのために執り成し祈ることができたのです。それは、ステパノが御霊様に自分の心の王座に着いて頂き、イエス様の愛を頂いて、隣人を愛していたからです。ステパノは、イエス様の十字架の祈りを知っていたのでしょう。

 イエス様は、ステパノより前に、十字架の上で、愛の極みを示されました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」私たちは、十字架のイエス様こそが本当の意味で律法を全うし、命をかけてすべての人を愛されたお方であると信じています。これは本当に、神の愛であるところの奇蹟としか言いようのないことです。また、敵を愛するステパノの姿、十字架のイエス様の執り成しの祈りに思い出される宣教師たちがいます。以前にも、お話したことがありますが、ジャングルの奥地に住む首狩り族に福音を伝えた5人の宣教師とその家族です。彼らは、イエス様が隣人を愛されたように首狩り族の人々を愛し、彼らの友となるために命を犠牲にしました。「ビティ・ミティ・プーニムーパー」「私はあなたが好きです。あなたと友達になりたい」と最後まで言い続けながら、福音を伝えた宣教師たちの心も、確かにイエス様の愛と御霊で満たされていました。

 私たちは、イエス様のお姿にならったステパノや宣教師たちのように、自分の命をかけてまで隣人を愛することなどできないと思うかもしれません。しかし、イエス様の十字架によって罪赦され、神の子として生きる一人の人間であることに、何ら変わりはないのです。私たちはみな、土の器です。空っぽの、欠けだらけの器なのです。そこに神様が無限に注いで下さる愛と御霊で満たされて、溢れるばかりになる時、私たちも、もっと深く、隣人を愛することができるようになるのです。なぜなら、私たちもすでに神の子どもとされているからです。天の父なる神様が、私たちを子として愛して下さり、養い、導いていて下さる、その歩みの中で、神様を愛し、隣人を愛する御国の民としての新しい生き方が示されました。私たちが、イエス様の愛と御霊で満たされて、精一杯、隣人を愛する小さな愛の業一つ一つが、神様に喜ばれるものとなり、主の愛と福音を運ぶ器として用いて頂けるよう、心から祈ります。

よみがえられたイエス様

「ここにはおられません。

 前から言っておられた とおり、

 よみがえられたのです。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マタイ28:6

                                  

<よみがえられたイエス様>     マタイ28:1~10

  イエス様は次のように約束してくださいました。 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 弟子たちがイエス様のことを裏切ったとしても、イエス様を一人残し逃げ出したとしても、イエス様は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束してくださるのです。

死を打ち破り、よみがえって今も生きておられるイエス様、まことの王であり、全世界、全宇宙を天の父なる神様と一緒に創造されたイエス様が私たちとともにいてくださるのです。イエス様は、「あなたがたはわたしとともにいます。」とは言われませんでした。もしイエス様が「あなたがたは」と言われたなら、弱い自分たちには到底イエス様にはついて行くことができないと、弟子たちも私たちもあきらめてしまったかも知れません。しかし、イエス様は、「わたしは」と、自らを差し出し、私たちの歩みが順調な時も、困難な時も、迫害の日にも、悩みの日にも、孤独を感じる時も、どんな時にも、私たちの手を離さないでいて下さるのです。それは、この世の終わりまで変わることはありません。

それがキリスト者の勝利の理由です。弟子たちが迫害を耐え忍び、殉教することができたのも、よみがえって今も生きておられるイエス様が彼らとともにいてくださったからです。彼らの熱心さや意志の強さによるものではありません。

エス様は、人間の目には、十字架にかけられ殺された無力な人と映りましたが、死んで葬られ、3日目によみがえられた復活の主です。ただ一人死の力に完全に勝利されたイエス様が、弟子たちとともにいてくださったことが弟子たちの力の源になっていたのです。

 同じように、イエス様は、私たちとともにいてくださいます。死の力を打ち破ってよみがえられたイエス様がともにいてくださることを思い出し、イエス様の約束を信じて、イエス様とともに生きる者であり続けたいと願います。

 イエス様の復活は、確かな事実として、私たちが今生きる道につながっています。まことに主はよみがえられました。私たちの疑いや誤解、弱さ、罪を、遥かに大きく深く包み込んで、事実、イエス様は今も私たちと共におられます。この喜びと希望をもって、十字架を見上げ、共に主の道を歩ませていただきましょう。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」


          

まことの王

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、

 ご自分を与えてくださいました。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰテモテ2:6

                                  

<まことの王>     マタイ27:27~44

 イエス様はいのちをかけて愛した人々からののしられ続けました。

 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

エス様は、十字架から降りることができなかったのではなく、降りることができたにも関わらず、ご自身の意志で天の父なる神様のご計画に従って人間が受けるべき罪の罰をすべて受けられることを選択なさったのです。 ここに、イエス様のまことの王であるお姿があります。イエス様は、私たちを罪の力から解放し、救い出すために来てくださった「まことの王」です。
 十字架の死は、人間にとって敗北であり愚かなことです。誇り高いユダヤ人にとっては、不名誉な事であり、蔑みの対象以外の何ものでもありません。 しかし、イエス様は十字架の死においても、父なる神様への信頼を失うことはありませんでした。御国の王として、御国に生きる者のあるべき姿を示されたのです。

天の父なる神様が人類を救うためにご計画されたのは、十字架にかけられたイエス様を仰ぎ見る者を救うことでした。ちょうど、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見たイスラエルの民が救われたように、十字架のイエス様をまことの王として仰ぎ見る者は救われるのです。これは、人間の常識を超えた救いのご計画です。
なぜなら、十字架にかけられた者は、神に見捨てられたもの呪われた者であると人々は信じていたからです。そして、実際にイエス様は、神に見捨てられた者、のろわれた者となり、私たちの背きの罪の罰を一身に受けられました。それ故に、私たちは、本来受けるべき罪の罰を受けずに救いに与ることができるのです。

 イエス様を罵った群衆も、祭司長たちも、ローマ兵も、犯罪人も、私たちも神様の御前には同じ罪人です。天の父なる神様を無視し、神の御子を無視し、自分勝手に自分の生きたいように生きてきた者たちです。しかし、私たちは十字架の主を神の御子であると信じる信仰を与えられ、自分の罪のためにイエス様が身代わりとなって、その罪の罰を受けてくださったことを信じ、死んで三日目によみがえり、今も生きておられるイエス様の弟子として生きていく者に変えられたのです。

 日々、天の父なる神様との交わりの中で示されるみことばに従って生きることができるようにこれからも主に祈り求めてまいりましょう。