和解への招き
「さばいてはいけません。」
マタイ7:1
<和解への招き> マタイ5:21~26
「殺してはならない」という律法の真の説き明かしに続いて語られたイエス様のおことばから、律法の根本にある神様の愛と、真の意味で私たちに求められていることに心を向け、教えられたいと思います。
「~してはならない」という禁止命令としての解釈では、神様の定められた律法を正しく受け止めるのに限界があります。それは、「~しなければよい」というふうに簡単にすりかえられてしまうからです。実際に人を殺すことだけを問題にするのは、人間のおもてに現れる行為にだけ目を向けているからであって、自分の心の中に目を向ける時、思いにおいて「人を殺したことはない」と言うことはできないことに気が付かされます。イエス様は、私たちの心の思いに目を留められるのです。さらに、人に対して馬鹿者、愚か者と言う事も殺人と同じように神様の御前に重罪であるとイエス様は教えられたのです。それは、馬鹿者、愚か者と言うことで相手の人格を傷つけることになるからです。さらに、殺してはならないという律法は、消極的に憎しみや悪意をもたないというだけでなく、積極的に自分から愛し和解することを命じているのです。
完全な義、人間の正しさを越える神の義は、禁止によっては実現されず、むしろ、「~しなさい」という積極的な方向へ転換することが求められます。それをして下さるのがイエス様です。
イエス様にあって「殺してはならない」という律法が、「仲直りしなさい」「和解しなさい」という愛の掟へと変えられるのです。神様は、まず、人と和解してから、みもとに来て、礼拝することを求めておられるのです。神への礼拝を中断してでも「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」というイエス様のお言葉は、決して、礼拝が二の次だと言っているのではありません。礼拝は、「捧げる」という形が大切なのではなく、隣人へ向かう私たちの愛こそが、心から神様を愛するものの捧げものであり、私たち自身をも捧げものとし、私たちが捧げる礼拝を、神様に受け入れられ、喜ばれるものとするからです。
「殺してはならない」という律法が、神を愛し、人を愛するために与えられたものであり、和解に生きるようにとの招きであることを心に刻み、イエス様から愛と勇気を頂いて、一人一人置かれているところで、このみことばに応答していくものでありたいと願います。イエス様から罪を赦され、父なる神様との和解を頂いた者として、主に頼りながら、イエス様のおことばに従って、和解という愛の業を実行させて頂こうではありませんか。