心を見られる主
「まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはすべて、
それに加えて与えられます。」
マタイ6:33
<心を見られる主> マタイ5:21~22
イエス様は、私たちに教えておられる律法の正しい解釈の一つ一つが、具体的にどのようなものであるかについて、6つの例を挙げ、律法学者やパリサイ派に属する人々の誤った解釈と、ご自身の正しい解釈とを対比して語ることにより、みことばの真理を明らかにされました。律法の精神を汲み取って守るようにと、律法の真の解釈、正しい解き明かしをされたイエス様のお言葉から、「律法を正しく解釈するときの原則」について三つ挙げています。
第一の原則は、律法の「文字」だけでなく、「精神」に目を向ける。例えば、殺人ということについて、彼らは実際に人を殺していなければ、殺してはならないという律法を完全に守っていると考えていましたがこの律法が命じていることは、単に文字通り人を殺してはならないと言っているだけでなく、私たち自身が、神の前にへりくだり、兄弟に対する態度は正しく親切なものであるか、隣人のいのちを愛しているかと問いかけているものです。神の命令はこれほど豊かで、崇高な精神の宿るものであることを、私たちは忘れてはなりません。人々は、律法を解釈するうえで重要なこの精神を見落としていたのです。
第二の原則は、行いと共に動機、心のうちに意識を向ける。人々は外面的には律法に従って行動していましたがその動機は不純で、人々から賞賛を得るために、正しく見える行いをし、自己満足のために律法を守っているに過ぎないものでした。私たちは、どのような動機から律法に服従しようとしているか自問自答してみる必要があるのです。自分の心の思いが神に向かっているか。それが一番大切なことです。
第三の原則は、律法を否定的にではなく、肯定的に積極的に解釈する。 律法が与えられている目的は、悪を行わないようにすることではなく、真に義を愛することにあるからです。律法学者やパリサイ派に属する人々の律法理解は「~してはいけない。」という否定的・消極的なことに留まっていました。けれども、イエス様は、私たちが「義に飢え渇いている者」になること、つまり、真に義を、義なる神を愛する者になるということが、父なる神のみこころであると教えておられるのです。
神は、私たちの心を読み取り、思いを調べられるお方です。そのお方が定められた律法は、私たちの霊的成長を助け、私たちが神を愛し、神の義を求める者となるために与えられた、恵みの賜物です。そのことを忘れずに、感謝をもってみことばを受け取り、喜んでイエス様のご命令に従う者でありたいと願います。天の父なる神のみこころは何か、よく祈りながら、考え、聖霊の導きに従って、日々、みことばを生きる幸いを味わわせて頂こうではありませんか。