小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

赦されて生きる 

「平和をつくる者は幸いです。
 その人たちは、神の子どもと呼ばれるから。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ5章9節

 

<主の力強い励まし>               マルコ2章1~12節

 ここに中風の者が物体のように運ばれて来ました。ここに来るに際して、一体誰の意志だったかさえ不明確です。主イエスは「彼らの信仰を見て、中風の者に『見よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた」のです。
 ここでは「中風の者の信仰を見て」とは記されていません。一体、他人の信仰を借りることは出来るものでしょうか。もちろん信仰は一人一人が信じることで、他人の信仰を代行したり、代用したりはできません。それにも拘わらず「彼ら」に運ばれてやって来ます。信仰は全く個人のプライベートなものなのではなく、またあってもなりません。信仰には「とりなし」と言う本質があります。「子よ、あなたの罪は赦された。」この言葉は私への言葉です。
 私が聖書に出会った最初は実はこの「生きることは赦される」でした。聖書が道徳書でなく、生命の書として私の前に姿を現したのは中学3年を卒業したときでした。我が家が倒産して一家ばらばらになり、私は義務教育を終えると大阪に集団就職で働きに出ました。その時、結核で血を吐きながら医療保護で入院していた兄に挨拶に行きました。我が家では彼が唯一のカトリック信徒でした。兄は年端も行かない弟が一人大阪に行くのは不憫だっだのだろうと思います。さりとて何もしてやることもできません。「存在そのものが迷惑」として生きていた兄の信仰告白だったのだと、今にして思います。こう言って私を励ましました。「将信、しっかり生きて行けよ。食い詰めてしまったら盗人になっても生きて行け。そのような時は泥棒も赦されると聖書にちゃんと書いてある。」私はびっくりしました。泥棒しても良いと兄貴が言うだけでなく、聖書にそう書いてあると言うのです。後の日、それが聖書のどこに書いてあるかを探して読み始めました。そんなこと書いてありません。
「存在自体が迷惑」な人に「子よ、あなたの罪は赦された」と主イエスは宣言しておられます。そして「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われました。彼は「赦された存在」として家に帰って行きました。人は失意の「床を取り上げて」立ち直り、生きることが赦されています。なので生きていかなければなりません。否、生きていくことができるのです。