小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

失われたものの自覚

「私のたましいは主をあがめ、

 私の霊は私の救い主である神をたたえます。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ルカ1:46~47

                                  

<失われたものの自覚>       ルカ15:8~10 

 先週は、迷える一匹の羊を見つかるまで捜す羊飼いの譬えを通して、命をかけて捜し、救い出して下さる神の愛の熱心を覚えました。今日の箇所にある譬え、「無くした銀貨を捜す女の人の話」も、「失ったものを熱心に、見つかるまで捜す」という全体のあらすじは、ほぼ同じです。どちらも、譬えで言われるところの、失われたものが人間であり、捜すものが神であるということは共通しています。ただ一つ違う点をあげるとするなら、最初の羊の譬えは、迷える羊にも、羊飼いのもとから離れてしまった自覚があり、羊飼いの元へ帰ることを求めたのに対し、無くした銀貨は、自分が持ち主にとって失われたものである自覚がないということです。この違いからイエス様は、私たちに何を気づかせようとなさっているのでしょうか。

   それは、神様にとって人間はすべて失われた存在であり、自分が持ち主のもとから迷い出た者であるという自覚を持っている、持っていないに関わらず、神様は熱心に捜して下さる、という事です。

 イエス様は、高慢な思いに自分の心が支配されていることに気づかずに、人をさばく罪によって、天の父なる神様との霊的な関係が失われていたパリサイ人や律法学者たちに、無くした銀貨の譬えを通して、彼ら自身こそ、自らが失われた存在である自覚さえない一枚の銀貨、罪人であることを諭されました。それは、闇に埋もれている自分の姿を自覚できない私たちに対するメッセージでもあります。闇の中にある自分を自覚できず、助けを求めることさえできない存在である私たちは、持ち主の手元から失われた一枚の銀貨のように、神様から離れて歩む時、神様にとって、なくてはならない尊い存在であり、大切にされ、愛されているからこそ、必死に捜されていることさえ分からずに歩んでいました。私たちは、ただただ、持ち主である神様が光を照らし、捜し続けて下さったからこそ見出されたものです。神様にとって、失われた存在であることを自覚し、父なる神様と、救い主なるイエス様によって見出され、赦され、喜ばれている自分であることを受け入れることが、私たちの「悔い改め」です。

 「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」イエス様が語られた譬えを思い巡らし、神様が捜し求めている銀貨、今なお暗闇の中にいる一人一人が、自分と同じように、光に照らされ見つけ出されて、持ち主である父なる神様のもとに帰る日を待ち望みながら、アドベントの時を過ごしてまいりましょう。
          

捜し出す神

「私のたましいは主をあがめ、
   私の霊は私の救い主である神をたたえます。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通ルカ1:46~47

                                  

<捜し出す神>        ルカ15:1~7

 クリスマスは、神の御子が私たちを救うためにこの地上にお生まれになった事実を喜び祝い、救い主を礼拝する日です。この譬えを通して、イエス様が私たちに何を教えようとされたのでしょうか。

 イエス様のこの譬えを何度も聞いたことのある方は、よくご存じの通り、羊飼いは救い主であるイエス様・父なる神様を表し、羊は、私たち人間を表しています。羊は、目が悪く、外敵から身を守るものを持たない弱い存在です。羊飼いがいなければ美味しい草のあるところや、生きるために必要な水のあるところに自力で行くことも出来ません。羊飼いがいなければすぐに衰弱して死んでしまいます。神様にとって、人間も、羊と同じように弱い存在なのです。

 最初の人アダムとエバが、神様の命令に逆らい、取って食べてはならないと命じられていた木の実を取って食べた、その時から、人間は神様にとって失われた存在となりました。それは、罪が人間に入り、神様と人間との間にあった霊的な交わりが断絶された為です。人間は、生まれながらに罪を持ち、神様のもとから離れ、自分勝手な道を生きる者となりました。ちょうど羊飼いのもとを離れた羊が、暗い道をさまようように、人間も、暗く、罪の渦巻く世界に、無防備のまま、迷い歩んでいます。羊が羊飼いから離れては、獣に襲われ、牧草にありつけず、死んでしまうように、私たちは、肉体的には生きているのですが、魂が罪の中に死んでおり、永遠の滅びに向かっているのです。どんなに文明が発達しても、人間の罪の本質は変わることなく、人間は、神様との関係が断絶された状態で地上に誕生します。

 イエス様は、天の父なる神様にとって失われた存在となった私たち一人一人を捜し出し、救い出すために、天の王座を捨て、今から2000年前に地上に来てくださったのです。イエス様は、全身全霊で、私を、あなたを愛し、神から失われ、罪の中に悩み苦しんでいる姿を悲しんでおられます。どんなに小さく貧しい者でも、人々から見捨てられたような者でも、イエス様は愛し、本気で捜し求めておられるのです。イエス様の声に耳を傾け、みことばから自分の進むべき道を教えられ、イエス様のもとに立ち帰り続ける者でありたいと願います。
          

御国が来ますように

「あなたの家とあなたの王国は、

 あなたの前に とこしえまでも確かなものとなり、
    あなたの 王座はとこしえまでも堅く立つ。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通Ⅱサムエル7:16

                                  

<御国が来ますように>         マタイ6:10 前半

  イエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」には、私たちに対する神様の御心が込められています。イエス様は、その最初に「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」と祈るよう教えられました。御名が聖なるものとされることを願う者たちが、それに続けて求めるよう教えられた「御国が来ますように」という祈りには、どのような意味があるのでしょうか。この祈りについて、3つのことを教えられたいと思います。

  第一に、これは神の国・神のご支配が、私自身の心と生活に拡大するようにという祈りである。私たちは「御国が来ますように」と祈る時、あるいはどこか遠くの方に思いを抱いて、「いつか」「どこかに」というイメージを持っているかもしれません。けれども、この祈りは、何よりもまず、「今」「ここに」私自身の心の中に「神の国」「神のご支配」が拡がることを求める祈りなのです。

 第二に、人々の間に神のご支配が拡がって行くようにという祈りでもある。「御国が来ますように」と祈ることを教えておられるイエス様は、やがて、神の国、神のご支配が完全な形で成就する時が来ると約束しておられます。私たちは、御国の完成が、この世の終わりの時、復活された主が弟子たちの目の前で天に帰られた時と同じように、再び、主が天から私たちの住む地上に来てくださる時であることを、みことばを通して知らされています。主が再び私たちのところに来てくださることを心から信じ願うからこそ、この主の再臨の実現のために福音宣教に全力を注ぐのです。

 第三に、これは御国の完成を待ち望む祈りでもある。先にも触れましたように、御国の到来は「すでに」私たちの内にあり、「未だ」完成したものではありません。やがてイエス様が来られて、この御国が完成する日が来ます。イエス様を信じて罪の赦しを受け、「御国が来ますように」と祈る私たちは、最後の日まで罪との戦いがありますが、やがて終わりの時には、罪の傷跡もすべて拭い去られて、神様が創造された人間の本当の姿、神の素晴らしさを映し出す栄光の姿に変えられることを聖書は約束しています。 「今」「ここで」神に従い、神にご支配していただいて、御国の幸いを味わうことのできる恵みと喜びを人々に伝え、確かな約束の日へと向かう私たちの、希望に満ちた信仰を証して生きたいと思います。