小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

十字架のことばによる救い

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。 
 主が良くしてくださったことを
 何一つ 忘れるな。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 詩篇103:2

 

<十字架のことばによる救い>    Ⅰコリント1:17~25

 パウロは、宣教する時一つ心に決めている事がありました。それは、十字架のことばだけを語る事です。十字架のことばとは、神の御子であられるイエス様が罪人の身代わりとなられ、十字架でその罰を受け死なれたという事実です。パウロが伝えたこと十字架のことばは、神の知恵に満ちたものであり、救われる者と滅びる者を分ける力をもつ言葉なのです。ここに神の知恵が隠されています。
 人間は、自分を知者であると考え、自力で救いを手に入れることが出来ると思い上がっています。救われる以前のパウロがそうであったように、自分の努力で神様の御前に義と認めていただくことができると信じて疑うことを知りません。しかし、それは神様が一番嫌われることなのです。神様は、自分の義を主張する者たちを退けられ、自分の罪を素直に認め、へりくだる者に恵みとして義を与え、救ってくださるお方です。高慢な人間には、神の御子の十字架の死ほど愚かなことはありません。ユダヤ人がイエス様を十字架にかけたのもその為です。また、自分の知恵を誇る異邦人たちも人間の知恵の故に救いを拒むことになったのです。それは、誰も自力で救いを勝ち取ったと誇ることがないためです。神様は、どこまでも十字架の御もとに膝を屈め、謙遜に十字架の主を仰ぎ見る者たちだけを救おうとなさったのです。
 パウロは、イエス様に出会い、自分の罪深さを高慢さを打ち砕かれ、強制的に主の御前にへりくだる者とされ、恵みに与る者と変えられました。ですから、パウロは自分の知恵ではなく、神の知恵によって福音を宣べ伝えようと決心したのです。
 福音は、誰でもいただくことのできる神からのプレゼントです。プレゼントを受け取る為に必要なものが信仰です。信仰とは、乞食が差し出す空の手です。高ぶる者は、手を出すことができません。神に頼らなくても自力でなんとか出来ると考えます。しかし、罪の問題は、罪人には解決不可能なことなのです。罪を一度も犯したことのないお方の血による贖い以外に罪の赦しはありません。一見、愚かに思われる十字架の死に、神の知恵があるのです。パウロは、自分の知恵ではなく、神の知恵に全き信頼を置き、そこに人生をかけます。
神様は、あなたにも救いを受け取って欲しいと望んでおられるのです。

 

監督職に就く人々の選任

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。 
 主が良くしてくださったことを何一つ 忘れるな。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  詩篇103:2

 

<監督職に就く人々の選任>    Ⅰテモテ3:1~7

 教会において、誰が監督(役員)に選ばれるか。それはとても重要です。いつの時代、どこの地域においても、一つの群れが共に力を合わせ、同じ目的に向かって歩むためには、どうしてもその群れを監督する人々が必要です。どのような基準で役員となる人を選んだら良いのか。パウロが示す基準について確認してまいりましょう。
 一つ目は、非難されるところがない人です。それはどのような点で非難されない人なのでしょうか。それは、一人の妻の夫であることです。次にパウロが定めた基準は、自分を制し、慎み深く、礼儀正しいことです。すぐに怒り出す人、自分の感情をコントロール出来ない人は、群れの監督者としてはふさわしくないことは当然です。次は、よくもてなすことです。また、パウロは、役員に選ばれる人には教える能力がある点を上げています。その理由は、役員の務めの一つに牧師が礼拝の中で語る説教の内容を吟味することがあるからです。牧師が説教壇から語る内容に誤りがあれば、その誤りを指摘し、正しいことを教えるようにアドバイスすることが役員に求められるのです。その次は、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲なことです。
そして、パウロが次に上げる条件がとても重要です。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。」また、次も同じように重要です。「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。」私たちは、弱い者で、口でどんなに謙遜そうな事を言っていたとしても、役員の立場に置かれると思い上がった自負心を抱くようになり、自分は神様から特別な恩恵を受けていると高慢になり、人を見下す者になってしまう可能性が生じるからです。そして、最後に教会の外の人にも評判の良い人でなければならないと勧めています。その理由は、嘲られて、悪魔のわなに陥らないためです。
 これらパウロの示す条件をすべて満たしている人はいません。パウロも自分の上げたすべての基準を満たしていたわけではありません。彼も基準に到達できるように努力し続けていたのです。ピリピ3:12~21参照。
 私たちもパウロに倣い、最後の最後まで神によって、キリストに捕らえられた者として感謝のうちに主に用いていただける器となる為に務め励む人になれたらと願います。そして、役員を選ぶ際に一番重要なことは、神のみこころにかなった人が示されるようにと祈り求めることです。私たちが心を一つにして真剣に祈り求める時、神様は、その時、その時にその教会にとって一番ふさわい役員を選ぶことが出来るように導いてくださいます。


 

礼拝における秩序

「何事でも神のみこころに従って願うなら、 
 神は聞いてくださるということ、
 これこそ 神に対して私たちが抱いている確信です。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰヨハネ5:14

 

<礼拝における秩序>    Ⅰテモテ2:8~15

  男女を差別することは神様の喜ばれることではありませんが、教会において、家庭において秩序が保たれることが必要であることは誰もが認めるところでもあります。
 パウロは、8節で男たちは、怒ったり、言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈るように勧めています。祈りは、男性だけに限定されたことではありませんが祈る時に忘れてはいけない点があります。それは、祈りの力を無効にする怒りや争いです。怒りの感情自体は悪いものではありません。しかし、怒りを正しく取り扱わないでそのままにしておくと、その怒りが憎しみに変わり、敵意になって罪を招くことに繋がります。そして、何より怒りに支配された心、憎しみに支配された心、無慈悲な心でどんなに祈ってもその祈りは、神のもとに届くことはありません。祈る内容が正しくても、祈る人が罪を犯したままの状態であるならば、神との交わりが断たれたままになります。ですから、祈る者は自分の罪を認め、和解しなければなりません。
 では、女性に対するパウロの勧めに目をみてみましょう。9~15参照。パウロの勧めの内容から推測できることは、エペソの教会には、礼拝の場にふさわしくない服装で礼拝を捧げている女性たちがいたのです。つつましい身なりの反対は、派手な身なりです。パウロは、礼拝においてふさわしい服装は、控えめな服装であるようにと勧めます。これは、大切な事です。彼女たちの第一の関心が神ではなく、その場に集う人々にどう見られるか。そもそも礼拝に集う目的がズレていたのです。これは、私たちも気をつけなければいけない点の一つです。私たちは、自分一人だけで礼拝を捧げているわけではありません。共に礼拝を捧げている人々がおられるのです。周りの人に好感を与えるような服装を心掛け、目立つ髪形や不必要な動作を慎まなければなりません。<br>
 神は、男女それぞれに特性を与え、それぞれが自分に与えられた性を受け入れ、どちらが優れていると比べる事をやめ、それぞれが神の定められた秩序に従い、自分に出来る精一杯の事を誠実に忠実に祈りつつ取り組む時、そこに神に祝福された家庭と教会が主(キリスト)にあって建て上げられることになるのです。
主が自分に期待してくださっていることは何か。主に伺いながら、一回一回の礼拝において共に礼拝を捧げる人々への配慮を保ちつつ、神に喜ばれる礼拝を共に捧げる者でありたいと願います。