小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

大胆に恵みの御座に近づこう

「キリスト・イエスは<br>
 罪人を救うために世に来られた。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰテモテ1:15

 

<大胆に恵みの御座に近づこう>    へブル4:14~16

 私たちは、どうして、自分たちだけがこのような試練に直面させられるのだろうか。失望し落胆する出来事に遭遇することがあります。しかし、キリスト者には、希望があるのです。
聖書は、キリストが偉大な大祭司であられると教えています。大祭司は、毎年、民の罪を贖うために神殿の至聖所に入り、動物の血を契約の箱のふたに振りかけることにより神の民の罪を贖うという務めを神からゆだねられた者でした。それに対し、キリストは、一度だけご自身の血をもって神の民の罪を贖われ、もはや神と人の間にあった隔ての幕は取り除かれ、自由に礼拝できる時代が訪れたのです。偉大な大祭司であられるキリストは、さらに人間が経験するあらゆる試みを受けることにより、試みの中にあるすべての人に同情できるお方になってくださったお方です。

 私たちも日々、サタンの誘惑を受け、その誘惑に負け、罪を犯すことがあります。同じようにキリストもサタンの誘惑と戦われ、その誘惑に聖書のみことばをもって完全に勝利され、私たちの模範を示してくださったのです。サタンに誘惑されること自体は、罪ではありません。誘惑に負ける時、その人は罪を犯すことになるのです。そして、もう一つ覚えたい事それがキリストのとりなしです。サタンは、いつも私たちが罪を犯す度に私たちの有罪を訴えます。しかし、私たちが告訴される度に、キリストが私たちの側に立ち、弁護してくださいます。これ以上に心強いことはありません。
すべての罪の罰は、すでにキリストが十字架の上で受けてくださったことによりその訴えは、すべて無効とされます。天の父なる神は、キリストの十字架の罪の贖いが有効である証拠として、キリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。神の御子のよみがえりは、御子の十字架の罪の贖いが父なる神に受け入れられた証拠としてなされた事だったのです。そして、私たちがサタンの誘惑に打ち勝つ力は、天の父なる神からいただくものなのです。
 キリストは、大祭司となられ、私たちと天の父なる神の間に入り、私たちと父なる神を繋ぐ役割を担ってくださっています。私たちは、無力ですが私たちが縋り付くお方は、全能者であられる神です。この世界を何もない状態からおことばだけで創造されたお方です。死者をよみがえらすことのお出来になられるお方です。ですから、試練の度に、折にかなった助けをいただくために、大胆に神の恵みの御座に近づく者になろうではありませんか。

 

すべての人のために祈る

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。 
 人がわたしにとどまり、
 わたしもその人にとどまっているなら、
 その人は多くの実を結びます。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ15:5

 

<すべての人のために祈る>    Ⅰテモテ2:1~4

 とりなしの祈りは、キリスト者にとって、教会にとって何よりも優先されなければならないことの一つです。初代教会の人々が良く祈っていたように私たちも彼らに習い、共に集まり、共に心を合わせ祈る群れでありたいと願います。 
 私たちが今、求められている祈りは、すべての人のためにとりなし祈ることです。パウロは、すべての人のために願い、祈り、執り成し、感謝をささげるようにと勧めています。すべての人のために祈る。これはとても重要な視点です。私たちは、とりなす相手を制限してしまう傾向があります。自分に対し好意的な人や自分と関わりのある人のためには祈るけれど、自分に対し好意的でない人のためにはあまり祈らないということがあるのではないでしょうか。しかし、この世界を創造された神様は、ご自身が造られた被造物が滅びることをお望みではありません。どんなに私たち人間が互いに傷つけ合い、殺し合う者であったとしても、分け与えることをやめ、限りあるものを奪い合うような者であったとしても、神様はそんな私たちを心からあわれんでくださるお方です。

そして、ご自身がどれほどあわれみ深く愛に満ちた存在であるかを人間に教えるために、愛する御子を地上に派遣され、イエス様の御業を通して、創造主なる神様が人間を愛してやまないお方であられる事実を明らかにしてくださいました。
取返しのつかない所まで行く前に私たちに出来ることが日々、執り成し祈ることです。ですから、私たちは、特に王たちと地位の高いにある人々のためにとりなし祈ることが必要です。
今の日本に当てはめるなら、天皇と為政者たちのために祈る必要があることがわかります。彼らには、ある一定の権限が与えられています。しかし、彼らがその与えられた分を越えて暴走する時、神様は彼らを滅ぼされることでしょう。そうなる前に、私たちは、彼らの救いのために執り成し祈る者となることが求められています。
主日に礼拝の中で祈られる司会者の祈りに心を合わせ、為政者たちの救いのために祈り続けましょう。彼らが本来の役割を誠実に果たし、自分の利益ではなく、国民一人一人の益を考え、神様から与えられた富が平等に分配され、すべての国民が平安のうちに落ち着いた生活を送ることができる政策を考え出し、実行に移すことができるように執り成し祈る者になろうではありませんか。

 

立派に戦い抜くために

「わたしがあなたがたを愛したように、 
 あなたがたも互いに愛し合いなさい。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ13:34

 

<立派に戦い抜くために>    Ⅰテモテ1:18~20

 パウロは、実際に主から離れた人々の名を例にあげ、テモテにエペソの教会を牧する者として、同じような事態にならないようにとキリスト者として信仰の生涯を立派に戦い抜くようにと励まします。
この励ましは、テモテだけでなく、キリスト者であるならば誰もが必要とするものです。私たちは、聖書が主張する真理を曲げることなく、常に自分たちが100パーセント恵みによって救われた者であることを自覚し、サタンの言葉に惑わされないようにしなければなりません。サタンは、いつも私たちの心の隙を狙い、私たちの心が律法主義に傾くようにと誘います。神の恵みを忘れる時、人は律法主義者となり、人をさばき始めるのです。私たちの心が人をさばく思いに支配されてしまうことがないように常に十字架の主の御前にひざまずき、へりくだり、主が成し遂げてくださった救いの御業を感謝する心の謙遜さをもち続けることができるように祈り続けましょう。それがパウロが言っている真理の帯を身につけるという意味です。パウロがサタンとの戦いに用いるようにと教えた防具5つです。

1 正義の胸当てです。イエス様がいのちがけで私たちを義としてくださった事実を認めることが正義の胸当てを身につけるという意味です。  
2 平和の福音の備えを履くことです。主の恵みを自覚することが平和の福音の備えを履くという意味です。  
3 信仰の盾です。サタンが放つ疑いの矢も、信仰の大盾があれば完全に守られます。信仰は、神様に対する信頼と言い換えることができます。 
4 救いの兜です。かぶるという言葉には、受け入れるとか、受け取るという意味があります。つまり救いを感謝して受け取ることです。  
5 御霊の剣です。みことばを正しく理解し、正しく用いることです。 


サタンは、私たちの心の隙をいつも狙っています。教会から足が遠ざかる。大きな失望や大きな試練がすべての原因であるわけではなく、小さな誤解や躓きの積み重ねにより私たちの心が主からだんだん離れることもあることを覚えましょう。
キリスト者としての生涯を立派に戦い抜くために、主が与えてくださったすべての武具を身につけて、日々、聖書に親しみ、祈りのうちに主から示された愛の業を実行する者になりたいと願います。