小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

主に倣う者になる

「主は、・・だれも滅びることがなく、
 すべての人が悔い改めに進むことを
 望んでおられるの です。」
                           

                                                f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅱペテロ 3:9

 

<主に倣う者になる>    ピリピ2:1~11

 ピリピの教会は、パウロの宣教活動を最初からずっとサポートし続けていた教会でした。しかし、教会内に問題が起り、その支援も滞る時期があったようです。パウロは、彼らにいつも心を一つにして宣教の働きに力強く参加する群れであり続けて欲しいと願い、この手紙の中でも一致に関する勧めを記しています。
 どうすれば人を自分よりも優れた者と思い、愛をもって兄弟姉妹のために祈りとりなす者になることができるのでしょうか。一致を妨げるものは何か。人間のうちにある利己心です。これがあると一致して宣教し続けることが困難になります。では、どうすれば、人を自分よりも優れた者と思い、愛をもって兄弟姉妹のために祈りとりなす者になり一致できる者になることができるのか。それは、いつも主を見て、その主の姿に倣う者になろうと心掛け、主に祈り求めながら生活することです。5節~11節参照。
 私たちは、人に仕えることを心から本気で喜んでいるでしょうか。それとも、人に仕えてもらいたいと願っているでしょうか。イエス様はどのように生きられたのでしょうか。イエス様のご生涯は、はじめから終わりまで文字通り仕えるしもべのご生涯を送られたのです。イエス様は、貧しい家庭に生まれ、育たれ、両親に仕え、大工であった父ヨセフと一緒に額に汗を流し、弟たちと妹たちを養うために労されたお方です。イエス様は、30歳で神の御子であることを公に宣言されるようになり、本格的に福音宣教をはじめられます。公のご生涯に入られた後も、イエス様はしもべの姿勢を貫かれます。イエス様のもとにはいつも病気の人々が連れて来られました。イエス様は、連れて来られた人々をみな癒されたのです。さらに、12名の弟子を選び、3年間彼らを訓練なさいます。弟子たちは、イエス様と一緒に過ごした3年で多くのことを学んだのです。宣教のやり方。仕え方。祈り方。弟子たちは、イエス様が捕らえられると逃げ出すような弱い者たちでしたが、心と思いを一つにして祈る彼らの上に聖霊様が下り、天からの力に満たされて、彼らは大胆に勇気を出して宣教する者となりました。
 同じように私たちもイエス様の生き方に倣う者となり、父なる神様との時間をもち、主にあって同じ救いに与った者同士、祈りにおいて宣教の働きに参加する者になりたいと願います。神様は、共に集まり共に祈る群れに親しく臨在され、その群れを主にあって心一つにしてくださいます。主が私たちを神の御業を共に見ることのできる者たちとしてくださることを信じ期待してまいりましょう。

 

キリストのための苦しみは恵み

「恐れるな。
 私たちとともにいる者は、
 彼らと ともにいる者よりも多いのだから。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅱ列王 6:16

 

<キリストのための苦しみは恵み>    ピリピ1:27~30

 人間は、苦しみより苦しまないで生きることを自然に選択する傾向があります。パウロも救われる前は苦しみよりも苦しまない方を選択していたことでしょう。しかし、パウロは自分がいただいた恵みの価値を知ることにより、その福音をどうしても人々に伝えずにはいられなかったのです。
 パウロはキリストのために苦しむことも恵みであると教えています。
リビングバイブルでこの箇所を読むと次のように書かれています。「あなたがたは、ただ、キリスト様を信じるだけでなく、キリスト様のために苦しむという特権をも与えられているのです。」苦しみが特権である。
普通、人間は苦しむことを特権であるとは考えません。しかし、パウロ使徒たちもそうでしたがキリストのために迫害されることを特権として受け取り、彼らは心から本気で喜んだのです。どうして彼らは苦しみを喜ぶことができたのでしょうか。それは、彼らが苦しみを受けるということは、キリストに属する者であると認められた証拠として理解したからです。使徒5:17~42参照。
 パウロはピリピの教会の兄弟姉妹たちにキリストに属する者とされた自覚をもって生きるようにと勧めています。ピリピ1:27参照 「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」この「ふさわしく生活する」という言葉には、本来、「市民の一員としてふさわしく生活しなさい」という意味が含まれているのです。キリスト者ならばキリスト者らしく、キリスト者としての特権をいただいた者として、キリストの福音にふさわしい生活を送ることが私たちに求められるのです。
 では、キリストの福音にふさわしい生活とは具体的には何に意味しているのか。それは御霊の実を結ぶ生活です。ガラテヤ5:22~24参照。
私たちは、自力で御霊の実を結ぶことはできない存在であり、自分だけではサタンの誘惑に打ち勝つこともできない者たちです。でも、支えてくれる兄弟姉妹がいるならば簡単に打ち負かされることはありません。ですから、最低一週間に一度は兄弟姉妹の顔を見て、互いの安否を確認し、再び戦いの場に戻る力と勇気をいただきたいと思います。
私たちの戦いは、勝敗の分からない不確かな戦いではありません。すでに勝利の確定している戦いです。ヨハネ16:31~33参照。希望をもって愛する家族や友人や知人たちが救われる日が来ることを信じキリストのために受ける苦しみを特権として受け取り直し、主のご命令に喜んで従う姿をとおして、救いのすばらしさを伝える者に変えられていきたいと願います。

 

死からいのちに移されて

「神は高ぶる者には敵対し、
 へりくだる者には 恵みを与える。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヤコブ 4:6

 

<死からいのちに移されて>    ヨハネ5:24~30

 私たちは、驚くべき宣言をイエス様の口から聞くことができます。それは、イエス様を信じる者が将来、永遠のいのちを持つ者とされるだけでなく、今、すでに信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことなく、死からいのちに移されているという驚くべき宣言です。
 私たちが「すでに死からいのちに移されている」とはどういう意味なのでしょうか。ヨハネ福音書の著者であるヨハネは、永遠のいのちを持つ者に現れる特徴を次のように上げています。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」Ⅰヨハネ3:14~15参照。この箇所から分かるように、私たちがすでに永遠のいのちを持っていることは、兄弟を愛していることによって明らかになるという意味です。
永遠のいのちという言葉をイエス様に置き換えて考えてみてください。永遠のいのちを持つとは、イエス様を持つということです。私たちは、イエス様を信じた時、イエス様と一つにされました。イエス様と一つにされた者には、イエス様が人々を愛されたように同じように愛する者になることが求められます。
 今、日本は大きな試練の中に置かれています。福島の地に自分の家をもちながら自分が地上に生かされている間にその家に戻ることのかなわない人々、度重なる地震や洪水や大雨で自分の家や家族を失った人々も沢山おられます。そして、何より天の父なる神様のもとを離れ、滅びに向かって歩んでいる迷える魂がこの日本中に満ちています。

 イエス様は、今、私たちに「わたしに聞く者になる」ようにと招いておられるのです。イエス様に聞く者とは、単にイエス様が語られた言葉に耳を傾けるだけでなく、イエス様がお命じになられることに真正面から本気で取り組み、差し引きなしでみことばが命じるままに従って生きる人になることです。私たちは、どうでしょうか。イエス様に聞く者になっているでしょうか。私たちは、弱い者です。すぐに計算し、目先の利益を優先し、第一にしなければいけないことを後回しにしていることが往々にしてあるものです。私たちにはみことばの約束の真実さを体験できるチャンスが与えられているのです。その機会をみすみす逃している場合があるのです。
エス様は自分のいのちを犠牲にして滅びなければならなかった私たちに永遠のいのちを与えてくださったのです。その事を思い出すとき、どんな犠牲も果たして犠牲と呼べるほどのものであるのかどうかを再検討しイエス様が体験なさった苦しみのほんの一部にでも与ることができるならそれを何にも勝る喜びと受け取ることのできる者に変えられたいと願います。