小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

天国で一番偉い人

「主の山の上には備えがある。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 創世記22章14節

 

<天国で一番偉い人>           マタイ18:1~4

 誰が一番偉いかという弟子の質問のなかに、人間がいかに高慢なものであるかが現されています。弟子たちの関心は、この世であろうと天であろうとどこであっても結局のところ自分の地位にありました。「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」イエス様が神の国を建設された暁には、その国を自分も治めたいという野望を弟子たちの誰もがいだいていたのです。イエス様は、自分の地位のことばかり心配し、互いに自己主張し合い、ねたみ争っていた弟子たちに向かって、彼らの考え方の誤りを示すために実物教育をなさったのです。マタイ18:2~3参照。
 イエス様のお言葉は、当然天の御国に入れると思っていた弟子たちにとって、驚くべき宣言となりました。弟子たちは悔い改めをイエス様から求められたのです。悔い改めとは方向転換を意味します。弟子たちは、誰が一番偉いかと互いに論じ合っていましたが、天の御国においては自分を低くする者が偉いと評価されるのです。「偉さ」ではなく「低さ」に目を向けるようにとイエス様は弟子たちを教えられたのです。そして、低さの手本として近くにいた子どもを呼び寄せ、弟子だちの前に置かれました。3節参照。
 子どもたちのようにとは、大人の世界 から見た場合の子どもたちの存在の低さと小ささを現しています。子どもは、こ の世において何の地位もありません。自分を誇り、偉ぶることもしません。また、謙遜さをもっていて喜んで人に譲ります。私たちは、どうでしょうか。表面的には、人に譲るような態度を示すことがあります。しかし、心の中では自分のしたいことをいつ必ず実現しようという野望をもっています。また、私たちは人から指摘されたり、強制されることを好みません。また、自分は何もできない、何も持っていないとロでは言いながら、自分のしてきたことを誇ったりするところがあります。しかし、良く考えてみるならば、私たちが自分で得たものなど何もないはずなのです。
 救いに関しても同じことです。私たちの救いは神様の恵みです。神様の一方的なあわれみで救われ、御国の民とされた罪人です。だれ一人自分の努力で救いを勝ち取った人はいません。行ないによる義ではなく、信仰による義の教理を正しく自覚していれば、その事実を素直に認めることができるなら、 御国で誰が一番偉いかという愚かな質問は生じてこないはずなのです。
 神様は、私たちが心から高慢であったことを認め悔い改めるならば、その罪を赦し、神様との交わりを回復させてくださいます。小さい子どもは、私たちの霊の状態を教えてくれる先生のような存在です。子どものように神様を信頼し、祈り、みことばを素直に受け入れ、主に従う者になれるように祈り求めてまいりましょう。