小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神のわざが現れるために

「この世と調子をあわせてはいけません。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ローマ12章2節

 

<神のわざが現れるために>             ヨハネ 9:1~12

 私たちは、毎日選びながら生きています。でも自分では選べないことがあります。それは、どのように生まれてくるかということです。この箇所に登場するのは、「生まれつき」の盲人です。人々は、盲目になった原因は、この人か両親の罪のせいだろうと勝手に判断していました。つまり、人が背負っている不幸の原因は罪の結果だと考えて、非難や軽蔑の態度をとる人が多かったのです。そして、なんとイエス様の弟子たちですら、「この人がこうなったのは、だれのせいですか。だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それとも両親ですかとイエス様に尋ねる始末です。
1.イエス様の見方 
 さて、この生まれつきの盲人に対して、イエス様は、なんと言われたでしょうか。3節で、イエス様は、こう答えられました 。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」イエス様の見方は,私たちの見方とは、まったく違っています。
つまり、過去に原因を探るのではなく「これからこの人の人生に神のわざが現されようとしている。そのために今があるのだ」という見方です。つまり、私たちには不幸に見える、マイナスに思えることすらも、神様は、そのことを通してみわざを現してくださるというのです。
2.シロアムの池 
 イエス様は、この盲人に奇妙なことをなさいました。つばきで泥を作って、その泥をこの盲人の目に塗られたのです。イエス様は、その場で、すぐにこの盲人の目を見えるようにすることもできたはずです。それなのに、わざわざ盲人の目に泥を塗られて、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのでしょうか。そしてイエス様が近づいてこられ、「この人が盲目なのは、神のわざがこの人に現れるためです」と言われたのです。今まで開いたことのない言葉でした。 イエス様に出会って、この盲人は初めて希望を持つことができました。 そして、イエス様の言葉に従って、シロアムの池に行って洗うと、目が見えるようになったのです。
 7節には、「シロアム」とは 「遣わされた者」という意味である、という注釈がわざわざ書かれています。実は、ここには、象徴的な意味があります。神から遣わされた者とはいったい誰ですか?イエス・キリストです。つまり、シロアムの池に行って洗うと目が開かれるというのは、イエス様の言葉を信頼し、イエス様のもとに行って洗うなら、目が開かれる、というメッセージです。イエス様が、十字架について流してくださった血は、私たちをすべての罪からきよめることができます。そして、三日目によみがえられたイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様は、世の光として私たちを照らし導き、また、決して渇くことのないいのちの水を与えてくださいます。
 神様から遣わされた方であるこのイエス様のもとに行くとき、私たちは、目が開かれ、すべてのことを働かせて益としてくださる神様が私たちの人生を導いておられることを知り、神様のわざが現される生涯を歩む者とされるのです。