読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

心と耳の割礼

「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りにたよるな。

 あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ。

 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 

                

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 箴言3章5~6節

 

 <心と耳の割礼>   使途(acts)7:51~60

ステパノは自分を訴えた人々に対する弁明をする中で人々の罪を指摘し始めます。人々は、自分たちの罪が指摘されることに対し、防衛本能を働かせ、心の耳を閉ざしていきます。彼らの態度は、私たちの態度にも重なるのではないでしょうか。私たちも、人から自分の罪を指摘されると無意識に防衛本能が働き、自分の罪の責任を誰かのせいにすることがよくあります。
アダムが神様から罪を指摘された時、自分の犯した罪を認める代わりに、その罪の責任をエバになすりつけたのと同じです。ステパノにイエス様を十字架にかけた罪を指摘されると人々は、その罪を覆い隠すかのようにステパノに殺到し、彼を町の外に追い出し、彼に石を投げたのです。私たちも気づいていないかも知れませんが彼らと同じようなことをしている場合があるのです。愛をもって私たちの犯している罪を指摘してくれる兄弟姉妹に対し、冷たい態度をとっていることはないでしょうか。夫や妻からの忠告に対し素直に耳を傾けているでしょうか。説教を自分に向けられて語られているものとして受け止めているでしょうか。心に割礼を受けていない人とは、みことばを自分に適用しない人のことです。みことばに喜んで従う思いのない人は心に割礼を受けていない人なのです。従う思いもないままにみことばを聞いても、それは本当の意味でみことばを聞いていることにはなりません。礼拝の場にいたとしても、心がみことばを受け入れる状態になっていないならばみことばはその人のうちに留まることなく、素通りして行ってしまうのです。

ステパノのいのちがけの弁明も説教も、人々の心には届かず、人々の怒りを招くことになりました。しかし、そこにパウロがいたのです。救われる以前のパウロがステパノの殉教する姿を目撃していました。ヨハネ12:24参照。
ステパノの殉教の死は、無駄になることなく、パウロの心にイエス様の十字架の死と重なり、深く刻みつけられたことでしょう。

同じように私たちの生き方が人々の心に大きな影響を与えるものであることを覚え、言葉や態度に気を配る者になりたいと願います。本気で神様を愛する生き方を選択するならば、自然に人に対しても愛のある配慮のできる人に変えられるのです。なぜなら、その人のためにもイエス様は、十字架で苦しまれたからです。イエス様がいのちがけで愛された人を私たちも愛することが求められているのです。みことばは、私たちのうちにある罪を明らかにするものです。その示された罪を本気で悔い改める時、喜んでみことばに従う者と変えられます。
自分中心にみことばを選んで聞くことをやめ、すべてのみことばを感謝して受け取れる者と日々、造り変えられるように祈り求め続ける者でありたいと願います。