小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

仕える者の心得

「行って宮の中に立ち、
 人々にこのいのちのことばを
 すべて語りなさい。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  使徒5:22

 

<仕える者の心得>    エペソ6:5~9

 私たちは、自分の仕事や立場や役割に喜びと生きがいと満足を覚えているでしょうか。それともただその日、その日に与えられた仕事を機械的にこなすことだけで気力と体力を消耗し、目的や希望もなく、ただ何となく時間が過ぎているという状況はないでしょうか。
 今日は、奴隷と主人の関係をとおして、仕える者の心得をみことばから学び、働くことに対する喜びや生きがいをどのようにして見出すことができるのか教えられたいと思います。奴隷と一口に言ってもそのすべてが肉体労働者とは限らず、奴隷の仕事には弁護士や医師や家庭教師などの仕事を担っていたのも奴隷たちでした。奴隷は人間として扱われることなく、家畜と同様お金で売り買いされる存在です。その証拠に主人が奴隷を叩いても、その日のうちに死ななければ主人は罪に問われることはありません。パウロは、その現状を前提にしたうえでまず、奴隷に対して勧めています。5節参照。
 自分に危害を加える主人に対し、恐れを抱くことや憎しみの感情をいただくことがあっても、通常、主人に対し、キリストに従うようにと勧められても簡単に受け入れられることではありません。パウロがこのように勧めた根拠は、何か。それは奴隷であっても、自由人であっても、神様の目には、同じ人間であり、そこに何の優劣もなく、それぞれに神様からの報いがあることを知ることです。そして、奴隷であっても自分に与えられた仕事を心から喜んでする時、その仕事に対する報いが主からいただけることを思い出すことです。
 主人に求められることは、何か。それは相手を脅すことをやめることです。どんなに脅しても奴隷はいやいや主人に従って働くだけです。脅すことやめる時、そこに信頼関係が生まれ、仕事の環境も良い状態になり、仕事に対する意欲も増し、結果的に生産性も上がるのです。
 神様は、みことばに従う者を祝福してくださるお方です。仕える者が心得るべきことは、雇用する側も雇用される側も共にまことの主の奴隷であることを自覚することです。そして、自分に与えられた仕事を神様から与えられたものとして受け取り直し、誠実に忠実にその仕事に取組み、自分の分を果たすことにより、主からの報いを期待して生活することです。私たちの仕える姿勢が人々の救いのために益とされるように誰に対しても平等に愛をもって仕える者に変えられていきたいと願います。
 

 

祝福された家庭になるために

使徒たちは、
 主イエスの復活を大きな力をもって証しし、
 大きな恵みが彼ら全員の上にあった。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 使徒4:33

 

<祝福された家庭になるために>    エペソ6:1~4

 家庭の祝福の基礎は、何と言っても夫婦です。夫と妻が互いに愛し合い、仕え合い、夫が夫としての分を果たし、妻が妻としての分を果たすなら、そこに麗しい家庭が築かれます。さらに、その夫婦に子どもが与えられる時、その家庭は、もっと広がりのある主に祝福された家庭となる可能性が生まれます。しかし、親と子がそれぞれ自分の分を果たすことがなければ祝福された家庭になることはありません。パウロは、子どもたちに対し、両親に従うことが正しいことであると教えています。同じパウロがコロサイ人への手紙では、両親に従うことは「主に喜ばれること」であると教えています。つまり、子どもが両親に従うことは単に親を喜ばせることではなく、家庭に秩序を定められた主のみこころに沿ったことであるため、子どもが両親に従うことを主は喜ばれるという意味なのです。
 神様は、神様が定められた家庭の秩序に従い、夫が妻を愛し、妻が夫に従い、子どもたちがその両親に従うところに祝福された家庭が築かれるのを主も喜んでくださいます。祝福された家庭を築くために親と子が心にとめるべきことは、主にあって、とパウロが勧めている点です。親は、主によって立てられた秩序のかしらであるから、当然、子どもは、その秩序に従い、神の権威を代表する両親に従わなければなりません。では親に対する勧めとは自分の子どもたちを怒らせるなという点です。どんな時に子どもは怒るのでしょうか。それは、親が一つの正しい物差しを使わずにその時、その時の自分の気分で子どもを叱る時です。子どもを怒らせてはいけない理由は意欲を失った子どもはいじけてしまい、性格がゆがんでしまうからです。ですから、親は、変わらない物差しである、聖書のみことばをもって、子どもたちに向き合い、感情的になっている時には、その場で子どもを叱ることをやめ、冷静に聖書のみことばに基づいて子どもを教え諭そうと心掛ける必要があることを覚えたいと思います。
 主のみことばに従って子どもを育てる時、親も神様からの祝福に与ることができます。その祝福とは、「あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。人生の終わりに悔いを残すことにならいために、今、自分にできることをみことばに従ってはじめてまいりましょう。


 

自分のからだのように愛しなさい

「金銀は私にはない。
 しかし、私にあるものをあげよう。
 ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、
 歩きなさい。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 使徒3:6

 

<自分のからだのように愛しなさい>    エペソ5:25~33

 今日の教会に元気がない一つの理由として、夫が本来の役割を担っていない厳しい現実があげられます。家庭において夫が自分に与えられた役割を自覚し、妻を愛しているならば妻も喜んで夫に従うことでしょう。そして、夫婦が愛し合い互いに喜んで仕え合うところに秩序が与えられ、子どもたちも安心して成長できる場所を得られるようになります。
 では、パウロは夫に対しどのように妻を愛するようにと勧めているのでしょうか。

パウロは、キリストが教会を愛されたように夫は妻を愛するようにと勧めています。25節参照。キリストは、教会を愛されたお方です。教会とは、ギリシャ語でエクレーシアといい、その意味は呼び集められた群れです。私たちは、一人一人神様から召され、呼び集められ、今、共に神様を礼拝する群れとされています。イエス様は、私たちを召すために十字架にかかりご自身のいのちを犠牲にしてくださったお方です。文字通り、イエス様の愛は、自己犠牲の愛です。パウロは、そのイエス様の自己犠牲の愛をもって妻を愛するようにと勧めています。これは実に驚くべき勧めです。自分のいのちを犠牲にしてもよいと本気で思えるほど私たちは妻を愛していると言えるでしょうか。残念ながら妻のために喜んで死んでもいいと思っている夫はそう多くはないと思われます。パウロは、夫に対し、自己犠牲の愛を示すように勧めた後、さらにキリストが教会のためにご自身を犠牲にされた目的を述べています。26~27参照。
 キリストが十字架で流された血は、私たちの犯すどんな罪もきよめることのできる完全なものです。そして、一度救った者たちをキリストは決して見捨てられることなく、その人を滅びから守り続けてくださるお方です。キリストは、教会のために喜んで犠牲を払い、教会に「愛」と「保護」を与えておられるのです。それと同じように夫には、妻を愛し保護する責任があります。妻を愛するとは自分の妻を自分のからだのように愛することです。夫が本気で妻を愛することを選択するとき、妻も本気で夫に従う者になります。そして、互いに愛し合う夫婦が心を一つにして祈り、力を合わせる時、家庭に変化が起こり、教会にも変化が起こり、教会が元気を回復し宣教も進むのです。