小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

闇の子から光の子へ

「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 
 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 黙示21:3

 

<闇の子から光の子へ>    エペソ5:3~7

 エペソの教会の多くの人も、アルテミス神殿の影響を受け、救われる以前淫らな行いをしていたのでしょう。この淫らな行いという言葉は、原文でポルネイアといい、ポルノという言葉の語源になっているものです。このポルネイアという言葉の意味は、もともと結婚している者が配偶者以外の者と性的な関係を結ぶこと、すなわち婚外性交を現わしています。現代の日本も、その意味でエペソの町と同じように淫らな行いが横行している現実があります。すべての結婚が創造主を信じる信じないに関係なく、神様のご支配のもとにあることを私たちは子どもたちに教え、私たちを創造されたお方が結婚前の性的な関係を禁じていることの真意を教える責任があるのです。本気で子どもたちの幸福を願うならば、自分自身がみことばに従って生き、子どもたちにもその見本に倣うように教え諭し導く者にならなければなりません。ですから、パウロが指摘しているように救われる以前の悪しき習慣や言葉づかいや生き方があるならばそれを改めることが必要です。わいせつなことや、愚かなおしゃべりや、下品な冗談を言っているならそれを口にしないように努めましょう。そして、召された者に新しく造り変えられた者にふさわしい言葉を口にする者になることが期待されるのです。
 召された者にふさわしい言葉とは、感謝のことばです。感謝できるようになるには、神様から愛されている事実を知る努力が欠かせません。知る方法は聖書を読むことです。恵みとは本来、受ける資格のない者がただ神様の一方的な選びの故に、救いに移され、闇の子から光の子と変えられ、光の中を歩むことができる者とされていることです。罪に対する刑罰である死が私たちにとっては天国の入り口と変えられ、死がのろいから祝福に変えられています。私たちにとって死は今与えられている不完全な肉体からの解放の時となり、苦しみも悲しみも憂いもない完全な世界へ旅立つ時となります。しかし、地上に生かされている間、私たちは誘惑に負け罪を犯すことがあります。私たちは自分の罪が示された時、すぐに主のもとに行き、その犯した罪を言い表し、主の赦しをいただき、主との交わりを回復しなければなりません。もう二度と闇の子であった時の悪しき習慣に戻ってはいけないのです。そして、光の子とされた者にふさわしいことばを用い、光の子としてふさわしい態度を身につけ、義の太陽であられるイエス様の光を反射する者であり続けたいと願います。
 

 

神にならう者になる

「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、
 天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、
 またおいでになります。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 使徒1:11

 

<神にならう者になる>    エペソ4:31~5:2

  私たちは、悪意の渦巻く地獄のような状況から救い出され、今、赦しと和解と平和の世界へと移され、平安のうちに日々、主の御前に生きることが可能とされています。これは本当に主のあわれみです。しかし、油断していると私たちは、救われる以前の状態に戻ってしまう危険といつも隣合わせに生きていることを覚えたいと思います。なぜなら、サタンは常に私たちを誘惑してくるからです。みことばから救われる以前の自分の状態を再確認し、救われた後に目指すべきことについてみことばにきいてまいりましょう。
 私たちは自分で考えているよりも誘惑に弱い存在です。私たちの周りには、誘惑となるものが満ちています。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢をサタンは用いて私たちを誘惑してくるのです。また、目に見える裁きがすべてではなく、目に見ることのできない裁きがあることを覚えなければならないのです。その裁きとは、罪を犯すと神との霊的な交わりが失われることです。罪を悔い改めることなくそのままにするならば、私たちの心は神から離れ、この世の事に関心が向けられるようになってしまうのです。ですから、私たちはいつも、自分の霊的な状態に関心をもち、言い表していない罪があるならば教えてくださいと主に祈り求めなければいけないのです。そして、救われた者が求めるべきことは互いに赦し合う者になることです。天の父なる神の愛を知った人は人に対して寛容な態度を示せるようになります。
 では、神にならう者になるとはどういう事なのでしょうか。この「ならう」という言葉には、「まねる」とか「なぞる」という意味があります。私たちの愛のお手本は、父なる神が私たちを赦してくださった事実です。イエス様の十字架の死に父なる神の人間に対する愛と赦しの見本が示されています。これほどはっきりとした愛の見本は他に見当たりません。
 私たちは、愛の冷え切ったこの世にあって神にならう者になることが期待されています。ですから、救われる以前の神に対する悪しき態度があればその態度を改め、悪しき習慣を捨て続け、聖霊様が喜ばれる善を追い求め、良い業に励みつつ、善意の目で人の良い面を探し、建設的な意見を述べ合い、積極的に目の前の課題に取り組み、召された者にふさわしい生活を実践し、神の御前に芳ばしい香りのささげものを常にお捧げする群れでありたいと願います。

 

聞く人に恵みを与える人になる

「わたしに従いなさい。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ヨハネ 21:19

 

<聞く人に恵みを与える人になる>    エペソ4:29~30

   教会が力強く宣教する群れとなるには、みことばの教理的な面の学びと共に学んだことを実践することが必要です。そして、宣教は一人一人がバラバラにするよりも、一致して力を合わせることによりさらに大きな力を生み出すものです。ですから、逆に一致ができないと宣教の働きも滞ることになり、教会自体も元気を失うことになりかねません。
 パウロが一致を妨げるものとして挙げた事は悪いことばです。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。」どうして、パウロはこれほど厳しく悪いことばを発することを戒めたのでしょうか。それは、私たちの口にする悪いことば一つで長きにわたり築き上げられてきた信頼関係が簡単に崩れてしまうからです。悪いことばとは、噂話や悪口や中傷です。救いに与った者には、悪いことばではなく、必要な時に、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えることが期待されています。そして、何より覚えたいことは、悪いことばを発すると私たちのうちに住んでおられる聖霊様を悲しませることになるという事実です。天の父なる神様は、聖霊様を通してみことばを正しく理解できるようにしてくださり、私たちをみことばに従って生きることができる者にしてくださるお方です。
 では、どうして私たちの生活がなかなかみこころに沿ったものにならないのでしょうか。それは私たちが聖霊様を悲しませる悪いことばを口にしているからです。私たちが噂話や悪口や中傷をやめない限り、聖霊様は本来の力を発揮することができません。ですから、私たちがなすべきことは、まず、自分の心の王座を聖霊様に明け渡すことです。心の王座を明け渡すとは、身も心も魂も主にお捧げすることです。ローマ12:1~2参照。
私たちがへりくだる者とされ、自分の義ではなく、恵みによりあわれみのゆえにイエス様の十字架の血によって罪を贖われ義と認められたことを素直に認め、神様が用意してくださった救いを心から感謝する時、私たちは聞く人に恵みを与える通り良き管と変えられます。私たちのうちに救いの御業をはじめてくださった神様が救いの完成まで責任をもって守り、導いてくださり、私たちをイエス様のご性質に似た者に変えてくださるのです。その保証としての聖霊様が私たちに与えられています。これほど心強いことはありません。
私たちが本気で祈り求めるならば、私たちのうちに住んでいてくださる聖霊様が私たちを助けてくださり、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与える存在と私たちを変えてくださるのです。