小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

勝利の生活をはじめるために

「人はうわべを見るが、主は心を見る。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 Ⅰサムエル 16:7

 

<勝利の生活をはじめるために>    エペソ3:14~17前半

パウロはエペソ人への手紙の中で二度目の祈りをここに書き記しています。一度目の祈りは、すでに学んだ1:15~19です。パウロは、一度目の祈りで「父なる神様のみこころを知るために聖霊の助けを請い求めました。2度目の祈りでは、聖徒たちが聖霊により、彼らの内なる人が強くされること、キリストが彼らの心のうちに住んでくださること、人知を遥かに越えたキリストの愛を知ることができるようにと祈ります。今日は、その祈りの「内なる人が強められる」ことと「キリストが心のうちに住んでくださるように」という祈りを学び、キリスト者の勝利の生活について考えてまいりましょう。
 パウロの言う「内なる人」とは、イエス様を信じた時に与えられた新しいいのちをもつ人のことです。Ⅱコリント4:16参照。「外なる人」とは、古き人、生まれ代わる前のいっさいのものを意味します。私たちは、例外なくキリストを主と信じた時、霊的に新しく造り変えられました。Ⅱコリント5:17参照。
大切なことは、自分の新生の根拠を自分の感情に置くのをやめ、みことばの約束に置くことを選択することです。パウロキリスト者としての歩みの中で祈りの力を体験し、エペソの教会の兄弟姉妹たちの内なる人が御霊によって強められるようにとせつに祈り求めます。そして、すぐ後に信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますようにと祈ります。この二つの祈りは、別々の祈りではなく、同じ祈りを別のことばで言い換えたものです。この二つの祈りは、とても密接な関係をもつものであることを覚えたいと思います。なぜなら、天の父なる神様からの祝福と力は、御父から御子であられるキリストを通して、御霊によって私たちに与えられるものだからです。
私たちは、キリストを愛していますと口で言うことができます。しかし、本当にその人がキリストを愛しているかどうかは行動に現れるのです。愛する人の命令に従うことは苦になりません。苦になるどころかそれは喜びであるはずです。私たちはキリストの命令に喜んで従っているでしょうか。キリストがどれほど自分を愛しておられるか。その愛に対しどう応答することがふさわしいことなのか。もう一度考えたいと思います。サタンの誘惑に負け、キリストを悲しませないために、敗北ではなく、勝利の生活をはじめるために、キリストに心の王座を完全に明け渡す決断を日々繰り返し続ける者になろうではありませんか。

自分と周りを活かす愛

「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。
 あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。
  そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 箴言3:5.6

 

<自分と周りを活かす愛>       ルカの福音書15:11後半~24節

 人と世界が活かされるのに何が必要かを教える聖書箇所です。家出の話です。 人間は素晴らしい神様の子供なのに、神様のもとを離れて生きようとします。神様は家出された親です。13~16節、イエス・キリストは神を離れた人生(世界)を見事に描きます。
人間が幸せに生きるには、①自分自身との関係、②神様との関係、③他人との人間関係、が満たされる必要があります。弟君は、これを3つとも失ってしまいます。
①自分を活かすことを失い、劣等感に縛られ、生き甲斐を失います。
②神様との関係を失い、逆境や試練に必要な力はあるのに、得られず無力です。
③他人との人間関係を失い、誰にも愛されず、孤独です。
これが聖書の言う「死んだ人生」です。生き物としてではなく、本来の姿に生きているかどうかが問題です。「罪」のニュアンスは「的はずれ」です。今の時代の課題は、本来の姿に活かされていない死んだ親子関係、夫婦関係、家庭、…です。下りから上りに転じる境目は〈17節〉「我に返った」です。今の自分が本来の自分ではないと気付いたのです。人生には苦しみがあって当たり前、と納得していないでしょうか。苦しみは本来の姿から外れているからなのです。背を向けて来た故郷の方へ方向転換(悔い改め)しました。光である神様に背を向けていると自分の影が見えます。振り返る時、光に気付くのです。
20節「まだ家までは遠かったのに」「父親は…走り寄って彼を抱き…」待っていた神様の親心です。本人は資格がないと考えましたが、父は資格有りと扱います。予想を越えた無条件の回復、大宴会でした。父親は歓喜に溢れています。人間が本来の姿に活かされるためには、この神様の愛を受け取る事が必要だとイエス・キリストは教えました。


仏教にも「長者窮児の譬え」があります。両者は人間観は同じで、救われ方が対照的です。興味深いのは、弟息子は出て行って宴会し、帰って来て宴会している事です。しかし神様と共かどうかで、意味は全く変わります。
キリスト教徒になると、捨てるのではなく本来の姿になるのです。神様抜きの宴会に神様の命が入り、毎日が祝宴というのがキリスト教です。
罪人が神様に愛され、無条件で赦され、受け入れられるのは、余りに虫がいいという問題があります。これへの答えがイエス・キリストの十字架です。必要な犠牲は神様が引き受けて下さったのです。全てを活かす神様の救いに気付いて方向転換しましょう。

 

落胆しないでよい理由

「ただ、主を恐れ、心を尽くし、
 誠意をもって主に仕えなさい。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 Ⅰサムエル12:24

 

<落胆しないでよい理由>       エペソ3:13

 人間は落胆する存在です。パウロが投獄されていることは、エペソの教会の兄弟姉妹にとって落胆の材料になるものでした。なぜなら、パウロは宣教の最前線で戦ってきた人だからです。パウロの投獄が福音宣教の停滞につながると考えた人もいたはずです。しかし、それは神のご支配をしらない人の考え方なのです。なぜなら、キリストが十字架にかけられることが人類の救いにとって必要不可欠であったことから明白です。サタンは、神の御子が十字架にかけられることで人類が滅びから救われる道を完全に閉ざしたと考えました。権力たちも邪魔者を消すことができたと安心しました。しかし、神の人類を救うご計画は、サタンや人間の策略によって変更されるような不確かなものではなく、永遠のはじめから定められていた確かなご計画であり、完全に実行される確かなものです。そうでなければ、人間の救い自体が不確かなものになってしまいます。<br>
私たちが受ける苦難も、同じです。信仰ゆえの苦難は、私たちの信仰を成長させるための一つの手段にすぎません。神は、愛する子どもの成長を何より望まれ、私たちが乗り越えられるだけの試練や苦難を経験することをゆるされるお方です。ですから、私たちは、目の前の苦しみや困難に簡単に動揺させられるのではなく、どんな状況でも神の約束を堅く信じられる信仰を神様から与えていただけるように祈り求める必要があるのです。サタンの誘惑に対しても簡単に負けることを選択するのではく、その誘惑にみことばをもって勝利できるように自分のうちにみことばを蓄える努力が求められています。いつでも必要な時に必要なみことばをサタンに対し言い放つことができるように備えましょう。
私たちのサタンとの闘いは、勝敗がどちらか分からないような不確かなものではありません。なぜなら、サタンよりも神の力が上だからです。ですから、神から与えられたみことばによってサタンとの闘いに必ず勝利することができます。これが落胆しないでよい理由です。すでに勝利が決まっている闘いです。これが分かると心に余裕が生まれます。どんなにサタンの力が大きく見えてもすべての出来事の背後には、天地を創造され、すべてをご支配される主権者であられるお方がおられるのです。また、神は、ご自身の器を犠牲とし、その苦しみを用いて、人々を救ってくださるお方でもあります。ですから、私たちも愛する者のために喜んで犠牲を払う者になろうではありませんか。</f