小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

広まり続ける福音

「神を愛する人たち、すなわち、
 神のご計画にしたがって召された人たちのためには、
 すべてのことがともに働いて益となることを、
 私たちは知っています。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ローマ8:28

 

<広まり続ける福音>      使徒28:30~31

 ル力は、使徒の働きを通して、イエス様が昇天された後、イエス様から派遣された聖霊様が地上においてどのように御業をなさったのか。今も聖霊様が私たちと共に居て御業を成し続けていてくださっていることを教えるために使徒の働きを書き残したのです。
 では、最後にル力が記したことから私たちが今、学ぶべきことは何でしょうか。パウロは、最後の最後まで、自分の出来ることを最大限やり貫こうと努め励んだ人でした。ローマ市民であったパウロには、自費で家を借りることや、家を訪ねてくる人に面会する自由が与えられたのです。囚人の立場は変わっていませんが家から出ることは許されない不自由さはありましたがパウロは、自分に与えられた環境を受け入れ、今、ここで出来る事をしようと前向きに積極的に物事に取り組みます。
 ルカ自身は、記していませんがパウロは、ローマで捕らわれの身となっていた2年の間に手紙を少なくとも4通書き残しています。エペソ人への手紙とピリピ人への手紙とコロサイ人への手紙とピレモンへの手紙です。パウロの残した手紙は、当時の教会だけでなく、2000年の間、すべての主にある教会の問題に対しても適用され続け、各教会を建て上げるために用いられています。私たちも、パウロの残した手紙から多くの恵みをいただいています。
 神様は、無駄なことを一切なさるお方ではありません。パウロの置かれていた状況を神様は、最大限に活かし、パウロを通して、主の体であるすべての教会を祝福しようと備えてくださるお方なのです。パウロは身柄を拘束されていましたが福音は、留まることなくローマから全世界に教会を通して広められ続けます。誰も、福音の広がりを阻止することはできません。たとえ、強大な軍事力を誇るローマ帝国でも、キリスト者を撲滅させることはできなかったのです。なぜなら、みことばと共に働かれる聖霊様が人々の魂と霊を守り、彼らの信仰を成長させ、どんな迫害にも耐えられる強い信仰者と変えてくださったからです。多くの試練を乗り越えてきたパウロたちの生きた証は、説得力があり迫害下に置かれた兄弟姉妹にとって大きな励ましと勇気と希望を与え続けました。
 私たちも、パウロたちのように人々を励まし、勇気づけ、支えることができるのです。今、置かれている状況が深刻であればあるほど、その中で必死に神様と共に生きている姿が人々の励ましになり助けになることを覚えたいと思います。世はキリストに従う者を憎みます。福音を広めようと働く者たちを阻止しようと試みます。しかし、誰も主のみこころを妨げることはできないのです。イザヤ55:11参照

エペソの教会

「正しい人の救いは主から来る。
 苦難のときの彼らの砦から。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 詩篇37:39

 

<エペソの教会>      黙示録 2:1~7

 2節「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍術をを知っている」エペソの町は、異教の一大都市で、キリスト教には不利な町でした。もったいないぐらいの励ましの言葉。イエスさまに知っていていただいているというのは、大きな励ましです。エペソの教会は完壁ではありません。しかし、その小さな教会をイエスさまは知っていてくださる。
 2節「あなたが、悪い者たちを我慢できず、使徒と自称しているが実はそうではない者たちを試して、その偽りを見抜いたことを知っている」。当時、キリストの弟子の一人だと自称しながら、実は異端の人々が小アジアにはたくさんいました。今の世界でもそうですが、それなりの魅力をもって近づく異端の人々を、教会は試して見抜くだけの霊的な洞察力がありました。つまり、イエスさまが彼らをほめているのは、迫害や試練に耐える忍耐力。教えの正しさ過ちを見抜く洞察力。そして世の中と妥協しないまじめな信仰です。それをエペソの教会の人々は持っていると彼らをほめてくださっているのです。しかし、主はエペソの教会に対して、一つの問題を突きつけられました。
 4節。「あなたは、初めの愛から離れてしまった」。エペソの教会は、 信仰の規準をしっかりと保ち、何が正しい教えかという、信仰的な正しさについて、揺らぐところがありませんでした。世の中と妥協しないまじめな生き方をしていました。しかし、イエスさまが、あなたには言うべきことがあると突きつけられた問題は、とても大切なことで、それは、「愛」でした。正しい教えを貫き、まじめな生き方を大切にする教会でした。エペソの教会は、大人の教会です。福音の教えを忍耐をもってよく守ったその面では成熟して分別のある大人の教会でした。パウロ、テモテ、ヨハネが牧会したと言われる程の伝統的な教会です。しかし同時に、教会としての奢りや自信も芽生えていたのかもしれません。いつの間にか頭が頑なになっていきます。知らず知らずのうちに、柔らかく、誰でも受け入れ、どんな機会も逃さずに伝道し、みんなの間に保っていた暖かい「愛」がわからなくなっていったのです。
 イエスさまは、エペソの教会への言葉を通して、私たち小海キリスト教会にも気が付かせてくださいます。永遠に残るものは、伝統ではない、正しさや正論よりも、何よりも信仰、希望、愛であって、その中で最も偉大なものは愛であるということを。私たちは必ず「初めの愛」に戻ることができる。なぜなら、こんなわたしの罪をその身に背負い、それを海の深みに投げ込んでくださった主は、私たちに永遠の愛を願っておられるから・・・。
つまり私たちが悔い改めた時、神さまは私たちの罪を赦すだけではなくて、もうすっかり忘れてくださっているのだと。

光がある間に

「人の歩みは主によって定められる。
 人はどうして自分の道を悟ことができるだろう。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 箴言20:24

 

<光がある間に>     使徒28:16~28

 人間の心は、長い年月、真理を頑なに拒み続けることにより心が固くなり鈍くなるものです。パウロが福音を伝えたユダヤ人たちも長年、真理を拒んできたことにより心が真理に対し鈍くなっていました。パウロは福音を拒んだユダヤ人たちにイザヤ書のことばを提示します。25~27参照。
「この民の心は鈍くなり」この鈍くなるということばはもともと心が肥え太っているという意味があります。神様の声を故意に聴こうとせず、なすべき真理を知りながら自分の好き勝手なことをし続けることにより、いくら神様のみことばが語られても、それを自分に語られていることとして聴こうとしない心の態度になってしまうことをパウロはイザヤの預言の言葉を引用することでユダヤ人たちに教えようとしたのです。
かつて、イスラエルの民は、神様が遣わした預言者たちを無視し、自分たちの態 度を肯定する偽預言者の言うことには耳を傾け、神様の警告の言葉を語る本物の 預言者を排除した歴史がありました。イスラエルの民の心は、富や快楽や自分の 欲望を追求することで一杯になり、みことばを心に受け入れられない頑なな状態 になっていました。
 それは私たちも同じです。毎週、礼拝の中でみことはが語ら れても、そのみことばを自分に適用しようとしないならば心は頑なになるのです。 そして、みことばに従わない自分と向き合うことを避けるために、神様以外のものに心を集中させるようになります。ユダヤ人は、律法を形式的に守ることに熱心になり、律法の本質である愛を疎かにしていきました。礼拝も、見た目には厳粛さがあり、沢山の犠牲の動物が捧げられていましたが一番肝心な罪の悔い改めが失われていたのです。それは現代も同じです。まだ、主の再臨まで悔い改めるための猶予期間があります。チャンスが与えられている今、私たちは神様に立ち返ることが求められるのです。
 イエス様は言われました。ヨハネ12:35~3 6参照。イエス様が地上におられる間にイエス様はご自身を信じるように人々を招かれました。イエス様が天に昇天された現在、私たちはイエス様が再臨されるのを待ち望んでいます。イエス様が再臨される前に一人でも多くの人が福音を信じ受け入れることができるように私たちは祈り求めなければなりません。闇の中を滅びに向かって歩いている家族や友人や知人の救いのために私たちがなすべきことがあるのではないでしょうか。彼らの救いのために共に集まり本気で祈りましょう。そして、彼らを心から愛することを通して神様の愛を彼らに伝えてまいりましょう。彼らも心の底では、神様の愛を必要としているのです。