小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

みことばの約束を信じて

「私はあなたを去らせません。
 私を祝福してくださらなければ。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 創世32:26

 

<みことばの約束を信じて>     使徒28:1~15

 パウロたち一行は、マルタ島で3か月間過ごしますが、その間、いろいろなことを経験したことでしょう。島の人々にどのように宣教したのか。宣教における島の人々の反応などをル力は記すこともできたはずです。しかし、ル力はあえてパウロが蛇の毒に犯されなかった出来事と癒しの業だけを記しているのです。それはイエス様が弟子たちに約束された出来事と関係があると考えられます。マルコ16:18参照。ル力は、パウロが蛇にかまれても何の害も受けない姿を見てイエス様が約束された事はやはり真実であると確信できたのです。ルカが注目した二つ目の点は癒しの業です。使徒28:7~8参照。<
 パウロが熱と下痢で弱っていたホプリオの父の上に手を置いて祈るとその病が癒されたのです。ここでもイエス様の約束がそのとおりになっていることがわかります。人々は、これらの奇蹟の御業を通して、パウロたちの信じている神様が本物の神様であることが体験的に理解できたのです。この時点でマルタ島の人々がすぐに福音を受け入れたかどうかは分かりません。しかし、現在マルタ島に365の教会が存在しています。
 パウロたちが蒔いた福音の種は、芽を出し、成長し実を結んだのです。それは私たちも同じです。宣教師の方々によって日本の地に蒔かれた福音の種は、すぐに芽を出し、成長するものばかりではなく、種のまま人々の心の中に留まり続け十年後、二十年後、三十年後、四十年後にそれぞれ芽を出し、成長し始めることもあるのです。私たちは、先人たちが蒔いた福音の種が今、ようやく芽を出し、 人々の救いにつながるのを見させていただいています。
 小海の町の人々の救いの ためにも、長年、祈りが捧げられ、みことばの種が通信小海により蒔かれ続けて います。種を蒔かなければ芽が出ることを期待することはできません。しかし、蒔けば主がいろいろな方法でその蒔かれた種を人々のうちで育ててくださいます。そして、人々を各教会べと導いてくださるのです。
 教会は、主を受け入れた人々が霊的に成長する場として神様が備えてくださった苗床のような場所です。 そこで私たちは共に取り扱われ、霊的に成長することが期待されています。私たちの求められることは、主によって与えられた持ち場や立場で、みことばの約束を信じて、みことばに従って生きることです。
先のことがどうなるか心配するのをやめ、素直にみことばに従ってやってみることです。そこに素晴らしい未知の世界が開かれます。まことの神様だけを信じる者にだけが見せていただける信仰の世界を共に体験させていただこうではありませんか。

御霊の働きによって

「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、
 他国のいろいろなことばで話し始めた。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 使途2:4

 

<御霊の働きによって>     使徒2:14~38

 今から、約2000年前にこの地上に来てくださった神の御子であられるイエス様は、人類の罪の罰を十字架に架かられ贖われるという重要な使命を果たされると、弟子たちの見ている前で昇天します。イエス様は地上におられた時にご自身が地上を去られた後に、聖霊(御霊)を弟子たちに派遣すると約束されたのです。ヨハネ16:4~13参照。その約束が五旬節に実現しました。使徒2:1~8 参照。
 ペテロがぺンテコステの日に人々に話した内容は、イエス様が神の御子であられるという事実と人々が今、目の前でみている奇蹟は、死を打ち破られ、よみがえられたイエス様から送られた聖霊が弟子たちに注がれた結果であることを教えました。そして、ペテロの説教の中で特に注目すべき点は、その場にいた人々に対して、彼らの罪を責める言葉を二回述べていることです。一回目は、23節です。二回目は、36節です。この二つのぺテロの言葉は、その場にいた人々の心を捉え、彼らの心を刺し通したのです。人々は、自分たちが犯した過ちに気がつかされたのです。自分たちは、神の御子を十字架につけて殺してしまうという取り返しのつかない重大な過ちを犯したことに目が開かれます。そして、自分たちの犯した過ちに気がついた人々は、自分たちがどうしたらよいのかとぺテロに尋ねたのです。ペテロはこの質問に対し二つのことを勧めます。
悔い改めとバプ テスマを受けることです。
人間の救いに関して悔い改めという言葉が使用される時、その意味するところは救いに関してそれまでもっていた間違った考えを変えることです。なぜなら、悔い改めと訳されている言葉は、「メタノー」という原語のギリシャ語でその意味は、考えを変える・心を変えるという意味だからです。
つまり、「救われるためにはこれこれのことをしなければならない」と間違って考えていたその考えを捨てて、聖書が言っている通りにただイエス様を信じることが悔い改めです。
二つ目は、「バプテスマ」です。これは、罪の悔い改めに伴う水によるバプテスマです。自分はイエス様を信じ、キリストに属する者になりましたということを公に証するために受けるものです。洗礼を受ける時、水の中に身を沈めますが、それは古い私はキリストと共に死んで葬られたことを表します。 水から上がることは、永遠のいのちが与えられて、キリストと共によみがえったことを表します。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」Ⅱコリント5:17参照。
救いが御霊の働きによって成される御業であることを受け入れ、聖霊の導きに従うことを今日、決断いたしましましょう。

救いの達成を目指して

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、
 かえって苦しく思われるものですが、
 後になると、これによって鍛えられた人々に、
 義という平安の実を結ばせます。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヘブル12:11

 

<救いの達成を目指して>     使徒27:27~44

 パウロの的確な指示がなければ水夫たちに逃げられ、乗船していた人々はみな助からなかったことでしょう。27~32参照。さらに、パウロは、夜が明けかけると一つの提案をします。それは食事を取ることです。食事を勧めた理由は、この後、船が浅瀬に乗り上げ座礁した場合、船が壊れ、人々が泳いで陸まで辿り着かなければならない事態となることが容易に予測できたからです。神様は、パウロや百人隊長を用いて、乗船していた276人の命を守られたのです。
 この出来事と人間の聖化が重なります。聖化とは、救われた者がイエス様のご性質に似た者に造り変えられることです。私たちは、救われる以前、神様の目から見るならば霊的には死んだ状態で生きていた者たちです。聖書の教える霊的に死んだ状態とは、罪のために霊的な存在であられる神様との交わりができないことを意味しています。ですから、すべての人は生まれながらに霊的に死んだ状態なのですがイエス様を信じると罪の間題が解決され、神様と人間の霊的な交わりは回復します。そして、神の子の身分が与えられ、永遠のいのちを与えられ、神の子として地上で生きることが許されるのです。しかし、それで救いが完成したわけではありません。救いの完成は、イエス様が再び地上に戻られる再臨の時まで待たなければならないのです。
 では、救いの完成を地上で待つ間、私たちはどうなることが求められるのでしょうか。それは救われた者が救ってくださったイエス様に似た者に変えられることです。つまりキリスト者の聖化です。ピリピ2:l~12参照。この箇所でパウロは、ピリピの教会に不一致の問題があり、兄弟姉妹が互いに自己主張しているかぎり一致することはできないと諭し、キリストの模範に倣い、互いにへりくだるようにと勧めています。神様は、霊的に新しくされた私たちが霊的に成長することを期待しておられるのです。私たちが成長するためにはみことぱに従うことが必要です。パウロは、ローマに向かう船に一緒に乗っていた人々の肉体の命が守られることだけでなく、彼らが自分の信じている創造主であられる神様を信じる者になって欲しいと願いつつ自分にできる最善を成し、主の教えに従順に生き、人々に救われた者の生き方を身をもって教えようと努めたのです。
 それは、私たちも同じです。単に自分が天国に行くことができればそれでいいという消極的な生き方ではなく、折角救っていただいたのだから何とかして自分が受けた恵みに同じように与る人々が起こされるように積極的に生きようと努め励む人になりたいと願います。