小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

成長する神の教会となるために

「人の子は安息日の主です。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ12:8

 

<成長する神の教会となるために>       使途20:13~38

 パウロは、エルサレムに向かう前にどうしてもやらなければならない事が一つありました。それはエペソの教会の成長を願うパウロからの決別説教です。命の危険を察知したパウロは、最後にもう一度エペソの教会に必要なみことばを語りたいと考え、ミレトからエペソに使いの者を派遣し、エペソの教会の長老たちをミレトに招きます。18~35参照。
 パウロは、決別説教の中で教会の起源とその所有権を明確にします。28節参照。教会の起源は、神であり、その教会の所有権も神にあります。これは常に確認し続けることが必要です。なぜなら、教会の歩みが人間のやりたいことを人間のやり方で計画し、実行するという極めて人間中心の営みになってしまう事があるからです。
 教会は、神によって召し出された者たちの群れであり、召された者は、教会の使命を果たすために協力し、神のみこころを実行することにより、主に栄光を帰するために存在します。その事を常に意識して私たちは祈りつつ総会に臨む必要があるのです。特に、2018年度は、3年に一度行われる信徒役員選出が行われます。役員の存在は、教会にとってとても重要です。牧師だけでは、牧会という重責を担うことはできません。
共に祈り、励まし、支え合う同労者が必要なのです。
 では、どのような事が役員になる人に求められるのでしょうか。今日は、役員の働きについてパウロの決別説教の中から学びます。説教の中でパウロは、長老(役員)に2つのことを命じています。
①あなた自身に気を配ることであり
②群れの全体に気を配ることです。
前者は、群れの見本になるように自分のうちに与えられた霊の成長のために務め なさいという意味です。群れの世話をする前に、自分の事に関して十分に時間をとりわけ、自分の霊の養いとなること実践することです。後者は、役員が牧師と 共に群れを牧する役割が与えられている為、ある限られた人だけでなく、群れに属する全員のために祈り、彼らの霊的な状態に気を配ることです。では、選挙で 役員に選ばれなかった兄弟姉殊には何が求められるのでしょうか。まず、群れを指導する立場にある役員のためにとりなし祈ることです。さらに、各自が神から 与えられた賜物を積極的に活かし合い、できることを率先して取り組むことです。教会を成長させてくださるお方は神であられることを意識しつつ、自分がみことばに従うことにより主に似た者に変えられ、御国を受け継ぐ者としてふさわしく整えられるように聖霊の助けを祈り求め続けましょう。使徒20:32参照。

復活信仰に生きる

「わたしについて来なさい。
 人間をとる漁師にしてあげよう。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マルコ1:17

 

<復活信仰に生きる>       使途20:4~12

 私たちは、この事故から何を学ぶことができるのでしょうか。三つのことを考えさせられます。一つ目は、いつ私たちほ地上での生涯を終えることになるか誰にも分からないという現実です。二つ目は、だからこそ、その日その日を大切に生きる責任があるという事実です。三つ目は、復活の希望をもってキリスト者として輝いて生きることができるという幸いについてです。
 一つ目、私たちのいのちは神の御手の中にあり、神の時に召されるのです。誰も神の時を変えることはできません。どんなに医学が進歩しても、人間がこの地上を去る時を遅らせることができるだけなのです。ですから、いつ、その時が来ても慌てることがないように日々備えましょう。
 二つ目、私たちが造られた一番の目的は、創造者を礼拝することです。初代教会の兄弟姉妹は安息日だけでなく、集まって礼拝を捧げていました。現代は、それぞれに仕事をしなければ生活できない事情があるために週に一度しか共に集まり礼拝を捧げることはできません。ですから、週に一度の礼拝を大切にしたいのです。
 三つ目、ユテコの死を通し神様のご計画は何なのかとその場にいた誰もがこの事故は何を意味しているのかと当惑したはずです。しかし、彼らの悲しみは、すぐに喜びに変えられたのです。パウロがユテコの上に身を伏せると死んでいたはずのユテコが生き返ったからです。この出来事に関係者はひとかたならず慰められます。しかし、人間は永遠に生き続けることのできない有限な存在です。誰もが自分の死と向き合う時がくるのです。パウロたちはいのちの危険と隣合わせの生活をしていましたが、死を恐れることなく、いつも大胆に福音を宣教することができたのです。それはどうしてなのでしょうか。激しい迫害の中を彼らが勇気を失うことなく、大胆に神だけを信じて前進できたのはなぜなのでしょうか。それは、彼らが復活信仰に生きていたためです。死を打ち破られよみがえられたキリストと出会い、キリストから聖霊をいただいた彼らは、聖霊の力に満たされ、死を恐れない者に変えられたのです。
それは彼らだけに限られた特別なことなのでしょうか。いいえ、私たちも彼らと同じように復活信仰に生きることができます。すでに私たちは、キリストの復活を信じる者に変えられています。死を恐れる者から死を恐れない者にすでに変えられているのです。
なぜなら、死は「終わり」ではなく、永遠の世界における主との交わりの 「はじまり」を意味していることを知らされているからです。Iコリント15:50~58参照。

聖霊の励ましをいただいて

「イエスはこのことを最初のしるしとして
 ガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ2:11

 

聖霊の励ましをいただいて>       使途20:1~3

 パウロは、福音を伝えた一つ一つの教会のためにいつも兄弟姉妹の名を挙げてとりなし祈り続けていたのです。パウロに祈られていることほど兄弟姉殊にとって励ましになることはありません。パウロは、はじめから主にある兄弟姉妹を励ますことのできた人だったのでしょうか。使徒9:10~20参照。では、聖霊に満たされたことによりパウロは、兄弟姉妹を励ますことのできる愛の人にいっきに変えられたのでしょうか。パクロが、人を励ます人になるには彼が人からも励まされる必要がありました。
神様は、パウロのもとに励まし手を派遣します。それがバルナバでです。バルナバの事は、使徒4:32~37参照。バルナバとは、慰めの子という意味のあるニックネームです。この慰めと訳されている言葉は、原語でパラクレーシスといい、「傍らに呼び寄せる」という意味があります。バルナバは、このニックネームの現わす通りの人であり、パウロをそばに呼んで慰め、励まします。
 イエス様と出会い、回心したパウロでしたがキリスト者たちは、救われる以前のパウロのことを知っていたためにパウロを簡単には受け入れません。使徒9:26参照。ところがバルナバだけは、パウロに対し違った行動を選択します。27節参照。バルナバは、パウロを引き受け、彼からどのようにして救われたのかを聞き、パウロの回心が本物であることを確信します。そして、パウロエルサレム教会の兄弟姉殊に紹介し、パウロキリスト者として新しいスタートをきれるように道備えをするのです。パウロは、この時の事を生涯忘れなかったはずです。
 バルナバからされたように、パウロは自分も主にある兄弟姉妹を励ます者、慰める者になろうと各教会を訪ねます。パウロの訪問を受けた各教会の兄弟姉妹はその愛のある行動にどれほど励まされたか想像に難くありません。
 パウロの時代の旅は、いのちがけです。盗賊に襲われたり、自然界の脅威にさらされたり、ユダヤ人からいのちを狙われる可能性も想定できる状況です。それらの危険を顧みることなく犠牲を惜しまず足を運んでくれたパウロの存在は、生まれたばかりの各教会にとって大きな励ましとなりまた。
 バルバやパウロ聖霊によって他者を慰める者に造り変えられたように、同じように私たちも同じ聖霊の働きにより造り変えられます。時間はかかりますが共に集まり祈る中で私たちは、イエス様のご性質に似た愛の人に聖霊によって造り変えられるのです。そして、私たちにとって最大の励ましは、聖霊の助け (聖霊の励まし)をいただいて共に祈り合うことができることです。ローマ8:26~27参照。真の励まし手であられる聖霊と共にとりなし祈る者に変えられてまいりましょう。