小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神の知恵による救い

「わたしに従って来なさい。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ1:43

 

<神の知恵による救い>       Ⅰコリント1:18~25

 神様は、この世(人間)が自分の知恵(神を自分の物差しではかろうとする思いあがった知恵)によって神を知ることがないようにされました。それは、神様が人間的な知恵や賢さをさばいておられる証拠です。19~20。

神様は、人間には愚かであると思われる方法で人類を救われます。18参照。パウロが人々に伝えた「十字架のことば」とは、イエス様の十字架の死と復活の事実を意味しています。十字架のことばは、「滅びる者」と「救われる者を二つに分けます。十字架に架けられて殺されたイエス様を神の御子であると信じる者は救われ、信じない者は滅びるのです。「福音」とは、なんと単純なものであり、なんと恐るべきものではないでしょうか。人間には、到底信じられないことを神様は私たちに信じられるようにしてくださるのです。自分が神様より上になっている人には福音が受け入れられません。神様が一番嫌われることが思い上がりであり高慢さです。神様は、人間がどこまでもへりくだり謙遜な者に変えられることによって救われる道を用意されたのもその為です。しかし、神様は、気前よく福音をすべての人に提供してくださるお方ですが福音を安売りされるようなお方ではありません。
 神様はご自分の造られた人間が滅びることなく、救われることを望んでおられま すが人間が考えるような仕方で救いを提供されなかったのです。パウロも、人間の要求に合わせ、福音を提供するような事をしなかったのです。パウロは、ストレートに十字架のキリストを宣べ伝えました。十字架はユダヤ人にとってつまず きであり、異邦人にとっては愚かなものでした。それは現代も同じです。多くの人々が十字架に躓きます。Iコリント1:23, 24参照。しかし、神様が召された人にとってキリストは、神の力、神の知恵とされるのです。召しとは選びのことです。私たちは、自力で救いを獲得することのできない者たちです。神の選びの民であるユダヤ人は、律法を守ることにより自力で天国に入ることができると本気で信じていたのです。霊的に盲目であることほど致命的なことはありません。彼らは見えると信じていましたが実は見えていなかったのです。多くの人が救いに招かれています。しかし、救いを受け入れる人は少ないのです。自分を知者であると思うことほど危険なことはありません。人間の知恵によって神を知ることはできません。同じように救いが人間の力を超えたものであることを素直に認め、神の知恵の前にへりくだる者に変えてくださいと祈り求めましょう。

自分のために生きるのではなく

「人はパンだけで生きるのではなく、
 神の口から出る一つ一つのことばによる。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ4:4

 

<自分のために生きるのではなく>       使途19:21~41

 人間の一番の関心は肉の問題です。アルテミス神殿の模型を造っていた職人にしても、群衆にしても、町の書記役にしても、みな自分の利益にしか関心がありません。人間は、自分に何か不利益が生じてくると目の色をかえてその利益を守ろうと必死になります。職人たちは、自分たちの仕事がなくなることを恐れたのです。群衆は、騒擾罪に問われることを恐れました。 町の書記役も町の治安を維持できなかった責任を問われることを恐れたのです。
 それは、彼らだけの事なので しょうか。私自身、彼らと同じ立場であったならば同じ行動をしていたでしょう。そして、今も私は彼らと同じような態度で生きているのではないかと考えさせられたのです。なぜなら、福音を宣べ伝えるとき、自分の身の安全を第一にしていることがあるからです。偶像を拝んでいる人々に対し、それがまことの神様でないことを教える責任が私にはあります。福音を受け入れなければ滅びることを大胆に語っていない自分がいます。困っている人がいても、見て見ぬふりをする時もあります。いざとなると自分を守ることしかしない利己的な自分であることを知っています。同じように霊的に生まれ変わっていない人間は、みな自分のためだけにしか生きられません。極端な話、自分さえよければ他の人が苦しんでいてもなんとも思いません。自分の家族だけ幸せならば友だちが困っていてもあわれみの心を閉ざすことができるのです。しかし、クリスチャンはイエス様を主として信じた時、霊的に新しく造り変えられ、イエス様と一つにされ、聖霊をうちに宿す者になりました。Ⅱコリント5:14参照。さらに、イエス様を信じることで神の子とされる特権を与えられ、イエス様の御名によって天の父なる神さまに祈り求めることのできる立場が与えられたのです。ヨハネ1:12参照。ですから、私たちが求めるならば神様から愛をいただき、その愛で人を愛せるようになるのです。ヨハネ16:22~24参照。
  感謝なことですが天の父なる神さまは、子とされた私たちの祈りを開いてくださり、その求めに応えてくださるのです。 イエス様の約束を信じて祈り求め続ける者になりたいと願います。そして、救われる以前の自分のためだけに生きるという空しい人生ではなく、主のために生きるという光栄な目的のある人生を主と共に歩む決断をしてまいりましょう。Ⅱコ リント5:13~15参照

宣教拡大の要因

「これはわたしの愛する子、
 わたしはこれを喜ぶ。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ3:17

 

<宣教拡大の要因>       使途19:8~20

 パウロは、エペソにおける伝道の時も、他の町で行ったやり方を採用しています。彼は、まずユダヤ人の会堂を拠点にして福音を宣べ伝えました。 8節参照。エペソの町でもユダヤ人には、その福音の内容が受け入れられないという厳しい現状がありました。 ユダヤ人に受け入れられない状況を見たパウロは、異邦人伝道に切り替えます。パウロは、ユダヤ人の会堂を後にし、ツラノの講堂で宣教します。ツラノという哲学教師の所有していた講堂をパウロたちは借りて宣教したのです。パウロたちは、哲学の勉強が休みになる昼の時間帯にその講堂を借りて連日聖書講義を行ったのです。パウロは、それまでなされてきたユダヤ教の古い伝統に縛られた教えではなく、聖霊に導かれるままに自由に聖書講義を熱心に行いました。
 パウロの講義を受けた弟子たちは、その教えを自分たちの町に持ち帰りそこで同じように聖書を人々に教え、福音がアジヤ全体に短期間のうちに広がったのです。そして、そこに驚くべき奇蹟が伴いました。11節と12節参照。この奇蹟は、人々を単に驚かせただけで終わることなく、エペソのキリスト者たちのうちに信仰のリバイバルを起こさせるきっかけをつくることになったのです。そのきっかけとなった事件とは、魔よけ祈祷師たちが悪霊にひどい目に合わされる姿を見て、人々がまことの神様を心から恐れる者に変えられたことです。13~19節参照。神様は、いろいろな方法で福音が人々のうちに広がるようにしてくださるお方であることがこの出来事から知ることができるのです。
 パウロは、この後、ローマに護送され、そこで裁判を受けることになり、ローマの獄中からエペソの教会に手紙を書いています。エペソ2:1~3と5:6~8参照。パウロはこの手紙を通して救われる以前の兄弟姉妹の状態を教え、救われる以前の生活に戻ることのないようにと警告しています。私たちも決断しなければならないのです。<br>
 エペソの教会の兄弟姉妹たちは、神様だけに従う道を選択しました。 そこに信仰のリバイバルが起こったのです。これらの出来事をとおして宣教拡大の要因は、人間のうちにあるのではなく、神様のうちにあることが確認できました。
私たちが真剣に謙遜な態度でみことばを学び続け、みことばに従って救われる以前の古い生き方を捨て、祈りのうちにみことばを宣べ伝える時、そこに驚くべき奇蹟が伴います。悪魔の支配下に置かれていた人々がまことの神様に立ち返り、悪霊の力から解放され、みことばに従って、光の子としての役割を果たし、滅びゆく人々をイエス様のもとに連れて来るひとりひとりになるという奇蹟を見ることになるのです。日本の教会からリバイバルがはじまるように祈りましょう。