小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

聖霊のバプテスマ

「イエスはますます知恵が進み、
 背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ2:52

 

聖霊バプテスマ>       使途19:1~7

 聖書には4つのバプテスマ(洗礼)の記事が記されています。一つ目は、ヨハネが授けていたバプテスマです。マルコ1:4参照。二つ目は、モーセと関係のあるものです。Iコリント10:2参。これは、イスラエルの民がエジプトを出て荒野を旅した時、指導者として立てられたモーセと民が心を一つにしたことを意味したバプテスマです。バプテスマという言葉は、原語でバプテゾーといい、一つにする、結び合わせるという意味とバプト一浸すという意味があります。三つ目は、聖霊によるものです。Ⅰコリント12:13参。このバプテスマは、人間がキリストを救い主として信じ受け入れた時に、その人をキリストのうちにある者とし、キリストの体に結び合わせる聖霊の働きを意味しています。これはキリストを信じるすべての人に信じた瞬間に起こることです。四つ目のバプテスマは、水によるバプテスマです。使徒8:38参。これはキリストを救い主として信じた人が、その信仰を公にするために証として受けるものです。
 パウロからキリストについて教えられるまで、ヨハネバプテスマしか知らなかった彼らは、やがて来られるキリストだけを知っていました。しかし、すでにキリストは来られたのです。パウロも、キリスト者を迫害していた時、すでに来られたキリストを知らずに生きていました。パウロは、復活されたキリストに出会い、キリストを受け入れ聖霊に満たされ、力強くキリストの死と復活を宣教する人に変えられました。それは、パウロだけに起こった特別なことではなく、私たちにも起こることなのです。私たちがキリストを主であると告白できるということは、人間の力ではありません。キリストの御霊(聖霊)が私たちのうちに与え られたからできることなのです。あなたは、いつバプテスマを受けましたかと聞かれたら、何年何月何日ですと答えるでしょう。しかし、それは水のバプテスマのことであり、イエス様を主として信じた時、私たちは、その時、すでにキリストと一つにされ、聖霊をうちに宿す者とされたのです。それが聖霊バプテスマです。イエス様を信じる時、あなたもイエス様と一つにされ、聖霊なる神様とも
一つにされるのです。ですから、すでにキリストのうちにバプテスマされた者と して、キリストを信じた人は、洗礼を受けてその信仰を公にすることが主から命じられています。マタイ28 :19参。そして、主を受け入れた者には、自分の心の王座を聖霊なる神様にご支配していただくことが必要です。なぜなら、救われた後も救われる以前の古い罪の性質は残っているからです。自分の力ではなく、聖霊の力により頼んで生きる時、新しい喜びに満ちた人生がはじまるのです。

教会が建て上げられるために

「私たちに、いのちを得させてくださいました。
 ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅰヨハネ4:9

 

<教会が建て上げられるために>       使途18:24~28

 プリスキラとアクラは、アポロの説教を聞いて彼のうちに欠けている点があることに気づきます。アポロの説教に欠けていた点とは、救い主の十字架の死と復活と昇天と聖霊降臨と教会の誕生についてです。これらの事はとても重要なことです。特にキリスト教にとって救い主の十字架の死と復活の事実は欠かすことのできない点です。プリスキラたちは、それをアポロに教えたいと考えたのです。その際、プリスキラたちは、アポロを人々の前で教えるような事をせず、ひそかにアポロを自分の家に招待し、彼に必要な情報を提供します。これはとても大切な点です。もしプリスキラたちがアポロに対し、人々の前で彼の説教の足りない点を指摘したとしたらどうなったでしょうか。おそらくアポロは、落ち込んで自信を失ったり、精神的に大きな傷を受けることになったかも知れません。プリスキラたちがそのように配慮したのは、単にアポロのことが好きだったからではありません。教会の将来を考え、彼がこれから主の教会が建て上げられるために神様から用いられる器になって欲しいと願いつつそれらの事を行ったのです。すべては主のためです。
 神様の期待しておられることは、先に救われた兄弟姉妹が神の子として共に成長することです。単に人々が福音を受け入れ天国に入ることができるようになることではありません。天の父なる神様は、救われた私たちが霊的に大人になることを望んでおられるのです。大人になるとは、自分のことばかりではなく、同じ主にある兄弟姉妹のためにとりなし祈る者となり、実際に兄弟姉妹を助ける者になることです。さらに救われていない家族や親せきや友人や知人に愛の業を実践する者になることです。そして、それらの愛の実践のためには、愛の供給源である神様から愛を受け取り続ける必要があるのです。
 では、どのようにして神様からの愛を受け取るのでしょうか。それが礼拝の中の説教です。ですから、牧師はそのために日々、みことばを準備しているのです。さらに、牧師の使命は、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせることです。エペソ4:12参照。<br>
  教会の成長を願うなら、どうすべきかは明らかです。神様の恵みにより、あわれみにより、信仰を与えられ、キリストのからだである教会の一員に加えられた者たちは、その恵みに感謝して、すべてのことを神様のために行うことが期待されています。新しい年、主の教会が建て上げられていくために自分にできることは 何か。共に祈りつつみこころを求めてまいりましょう。そして、自分のなすべきことが示されたら素直に従いましょう。ローマ12:2~8参照。

すばらしい喜びの知らせ

「主は富んでおられたのに、あなたがたのために
 貧しくなられました。それは、あなたがたが、
  キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅱコリント8:1:21

 

<すばらしい喜びの知らせ>       ルカ2:8~12

 さて、クリスマスと言えば今では日本中どこでも華やかに飾られ、各家庭の年中行事のひとつとして位置づけられているほどメジャーなものとなりました。クリスマスがキリストの誕生日であることを知る人々も増えてきております。しかし、キリストが自分の罪のために十字架に架かり身代わりになって罪の罰を受けてくださるために誕生されたお方であることを正しく理解している人々は多くはありません。どうして、神の御子が十字架に架からなければならなかったのか。共に考えてまいりましょう。
 一番はじめに確認したいことは、人間が犯す罪のためにその罪を赦されるためには罪のないお方の血が流される必要があったという点です。他に罪が許される方法があれば神様がそれを選ばれたはずです。私たちは、それをまず心に留める必要があるのです。次に、罪について確認しましょう。聖書が教える罪とは、神様の命令に従いたくないという思いの事です。これは人間にもともとあるもので自我と言い換えたら分かりやすいでしょう。私たちは、禁止されていることを守ることができません。それは罪がある証拠です。そして、罪を犯すと罪責感に苦しむことになり罪の罰として与えられた死に対する恐れもあるために平安がありません。人間が真の平安を得るためには、神様との交わりが回復される必要があります。キリストが地上に来られた目的がここにあるのです。
 キリストは、神様と人間との交わりを断絶させた罪を処理されるために十字架に架かり、罪の罰を受け、人間の罪が許され、神様との交わりが回復される道をつくってくださったのです。これが福音です。私たちは、自分の罪のために十字架にかかり死んでくださったキリストを神の御子であると信じるだけで、罪を悔い改めるだけで、罪を赦していただけるのです。そんな事で罪が許されるのかと思われる方もおられるでしょう。しかし、自分が罪人であることを本当の意味で自覚することは口で言うほど簡単なことではありません。聖書を読んで罪が何であるかが分かるようになるのは神様の働きによるものです。さらに、自分が罪を犯さないでは生きられない罪人であることが分かった時、はじめて救いを求める飢え渇きがその人のうちに与えられるのです。神様は、このすばらしい喜びの知らせを携えた御使いを羊飼いのもとに送られました。ここに、弱い者、虐げられた者、小さき者に対する神様のあわれみが現わされています。羊飼いは、御使いの言葉を聞き、喜び勇んでキリストのもとに駆けつけます。私たちも、彼らのようにこの素晴らしい喜びの知らせを受け取る者になりましょう。