小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神を知る態度

「あなたの隣人を
 あなた自身のように愛せよ。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ10章27節

 

<神を知る態度>       使徒acts 17:10~15

パウロたちは迫害の手を逃れ、ベレヤの町に行きます。この町の人々は、良い人であると記されています。この良い人とは、高潔な人という意味があります。もともと生まれがいいという意味がある言葉ですがそれが寛大であるとか、自由であるとか、偏見がないとか、素直であるという意味に代わっていった言葉です。この言葉の意味から分かるようにべレヤの町の人々は、パウロたちが伝えた福音に対し、偏見をもっていなかった人々であったことが分かります。神を知る態度として必要なことは偏見を捨てることです。さらに、神を知る態度で大切なことは、神様が人格(性格)をもつお方であることを認めることです。神様は、三位 一体であられるお方であることは、みことばから知ることのできる真理です。創世記1:28参照。
人間が神の姿に似せて作られたという意味は、神様が交わりをもつお方であると同じように人間も人間同士の交わりを必要とする者として造られたという意味なのです。そして、私たちは、人間同士の交わりが必要なように神様とも本来、交わることが必要な存在として創造されました。しかし、アダムたちが神様の命令に背いた結果、その交わりが断絶され、人間は自分の意志で自分勝手な道を進む者になります。その罪のために断たれた関係を回復させるためにイエス様は十字架に架かられ、罪の間題を解決してくださったのです。これほどまでに神様は、人間との交わりを望んでおられます。
神を知る態度は、神様が人間との交わりを望んでおられることを素直に認めることです。神様に対するいろいろな偏見を捨て、みことばと向き合いましょう。そして、聖書が示すありのままの神様を知るならば新しい発見があるのです。神様に霊の目を開いてください。みことばの真理を正しく理解させてくださいと謙虚な態度で祈りながら聖書を読みましょう。天の父なる神様は、子である私たちとの日々の個人的な交わりを心から楽しみにしておられるのです。親が子どもとの時間を喜ぶように、なんでも言い合える信頼関係を築きたいと望んでおられます。
ダビデは、詩篇で神様に対する自分の正直な心のうちを告白しています。すべてを知っておられる神様に隠し事は無用です。ありのままの思いを父なる神様にぶつけましょう。神様は、本気でご自身を知りたいと願う者にご自身の本当の姿を現してくださいます。ヨハネ14 : 8~10参照

王なるイエス

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、
 神がキリストにおいて
 あなたがたを赦してくださったように、
 互いに赦し合いなさい。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain エペソ4章32節

 

<王なるイエス>       使徒acts 17:1~9

私たちの周りには、苦しむ人々が沢山います。私たちは、助けを必要としてい る人々に仕えるために選ばれたことを覚えたいと思うのです。私たちは、強いか ら相手を助けられるわけではありません。苦しみの中にある人にとって、強い人 の存在は受け入れ難いものです。強い人よりも弱い人、苦しみの中に置かれてい る人の存在が苦しむ人を励まし、慰め、助けることになるのです。イザヤ53章参照。
エス様は私たちと同じようにいやそれ以上に弱さを纏われたお方です。人々の罪を赦し、病を癒し、悪霊の力から解放された背後には、それらの苦しみをご自分が代わりに負われるという犠牲がありました。 また、イエス様は、弱い私たちを慰め、励ますために小さな者となってくださったお方です。子ろばに乗られ、エルサレムに入城されたイエス様に深いあわれみに満ちた神様の愛を覚えさせられます。力の象徴である軍馬ではなく、柔和さと忠実さの象徴であるロバに乗ってまことの王であられるお方は来てくださったのです。そして、イエス様は言われました。マルコ10:45参照。

エス様は、人々に仕えられるために来られた王ではなく、人々に仕えるために来られたお方です。しもべとなられたイエス様をまことの王とする私たちも、イエス様に倣い、イエス様が愛された者たちをへりくだって愛する者になりたいと願います。誰が小さき者なのか教えてくださいと祈りましょう。教会から離れている兄弟姉妹が示されるかも知れません。家族の誰かが示されるかも知れません。自分が示されることもあるでしょう。示された人に対し全力で愛することを選択していこうではありませんか。イエス様は、愛するもののためにいのちを捨てられたお方です。私たちがイエス様のように全力で相手を愛するならば、その愛はいつか必ず相手に届く時が来ます。その時を信じて、愛し続けましょう。
ただ、天国に入るだけで満足する消極的な生き方ではなく、天国で今より沢山のこ奉仕を任せていただけるように「よくやった忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜ぴをともに喜んでくれ。」マタイ25:21
とまことの王であられるイエス様からあたたかい言葉をいただけるように積極的に物事と向き会い、悔いのない人生を選択していこうではありませんか。

世に対するキリスト者の役割

「よい地に蒔かれるとは、みことばを聞いて、
 それを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、
 あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の
 実を結びます。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ13章23節

 

<世に対するキリスト者の役割>       使徒acts16 : 35~40

ピリピの町には、不正な裁判を公然と行う長官たちがいました。富と権力が集 中するところに堕落も伴います。それは歴史が証明している事実です。パウロは、無実の罪で捕らえられた時、自分がローマの市民権をもっていることを主張することにより不当な裁判を回避することができました。なぜなら、ローマの市民権をもっている者は、いろいろな意味で優遇される特権が与えられていたからです。
では、どうしてパウロは処罰される前に自分がローマ市民権をもっていることを明かさなかったのでしょうか。いろいろ想像できますが有力なものとして考えられることは、ローマ市民権を使って福音を伝えてもそれによって福音を受け入れる人々が現れたとしてもそれが純粋な動機でない場合があるからです。Ⅰコリント1:17参照。

では、釈放されると分かった時、どうして自分がローマ市民権をもっていることを主張したのでしょうか。パウロは、ピリピの町の為政者たちが不正を行っていることを見過ごすことができなかったのです。なぜなら、神様は正義を愛されるお方だからです。さらに、不正を見逃さずに大胆に長官たちと対時する姿を看守に見せるためでもありました。救いに与ったばかりの看守にパウロは、キリスト者の生き方の模範を示そうとしたのです。キリスト者は、世の権力者に迎合してはなりません。なぜなら、キリスト者はすべてをご支配されているまことの神様を信じる者だからです。生きている者だけでなく、死んだ者も裁かれる神様を恐れる者は、目に見える人間をもはや恐れる必要はありません。
正義を行われる神様を本気で畏れ、地上でも正義と公義が行われるように祈る責任がキリスト者に与えられています。イエス様も、言われました。「あなたがたは地の塩です。」キリスト者は、地の塩の役割を果たす責任が与えられています。私たちには、世の腐敗を止める塩の役割があることをもう一度覚えたいと思います。もし私たちが不正に対し、無関心になっているならぱとても危険な状態にあるしるしです。罪の認識が薄れることを警戒し、いつもみことばの光によって自分の罪を照らしていただき、その罪を心から悔い改めることができるように祈り続けましょう。そして、まことの神様を畏れる者にふさわしい態度を表明し、正義が天で行われているように地上でも行われるように祈り続ける者でありたいと願います。