小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

異邦人の光

「罪は戸口で待ち伏せして、
 あなたを恋い慕っている。
 だが、あなたは、それを治めるべきである。」
        
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 創世記4章7節

 

<異邦人の光>           使途acts 13:44~52

 パウロたちが宣教すると多くの異邦人たちが会堂に押しかけて来ました。ユダヤ教の会堂が異邦人で一杯になる。この状況は、ユダヤ人にとって喜ばしいことでは ありません。なぜなら、ユダヤ人には神の選びの民であるという特権意識があり、 偶像崇拝をしてきた異邦人を軽蔑していたからです。パウロがその異邦人に対し、 律法を守らなくても、割礼を受けなくても信仰のみで神の御前に義とされ救われると教えられてはユダヤ人の立場がありません。ユダヤ人たちは、自分たちが大切にしてきた律法を軽視されていると誤解したのです。また、異邦人が簡単に救いに与る姿を見て嫉妬したのです。パウロたちに対する憎しみがユダヤ人たちのうちに燃え上ります。ちょうどイエス様を当時の権力者が妬んだように、パウロたちに対する妬みが憎しみに変わり、彼らに対する迫害となって現れたのです。44~45参照。
パウロたちは、その迫害に対し、とても重要な宣言をここでユダヤ人と異邦人に対して発します。46節参照。パウロは、宣教に対する彼らの妨害が彼ら自身に災いをもたらすものであることを宣言したのです。神の選びの民であるユダヤ人が救いを拒み、その結果、救いからかけ離れていると思われていた異邦人が代わりに救いに与ることになる時代が訪れたのだとパウロは人々に宣言します。
いつの時代でも、福音は人々に二つの選択を迫ることになります。なぜなら、みことばは簡単に聞き流すことのできないものであり、人間の永遠のいのちと永遠の滅びを決定することだからです。人間は、福音を受け入れるか拒むかどららかを選択しなければなりません。イエス様を救い主として受け入れる人々と拒む人々がいたように今も同じことが繰り返されているのです。

エス様を「わが主、わが神」と告白し救いに与った者たちには、異邦人の光として、輝くことが期待されています。どんなに人間のうちにある闇が深くても、光であられるイエス様を主としてお迎えするならばその人も光と一つとされ、輝くことができるのです。私たちが自分のうちに住んでくださるイエス様に心の王座を明け渡し、自分のしたいことを優先させることをやめ、イエス様が望んでおられることを選択する時、私たちは輝くのです。人の目を気にすることをやめ、神様がどう生きることを喜ばれるかを常に考え、イエス様 の模範に倣い、小さき者たちに愛の業を実践することに全力を尽くす者になりたいと願います。祈り備えるならば、愛の業を実践する機会が与えられます。イエス様が自分にしてくださったことを思い出し、そのしていただいたことの一部でも他の人に実行できるように祈りつつ生活していこうではありませんか。

 

神の恵みによる救い

「すべての人は、罪を犯したので、
 神から栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる
 贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」
        
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ローマ3章23~24節 

 

<神の恵みによる救い>           使途acts 13:13~43

 パウロたちは、いつものように安息日ユダヤ教の会堂に入ります。安息日には、いつも律法と預言者の朗読があり、その後、奨励の言葉が語られていました。 会堂管理者は、パウロバルナバのもとに人を遣わし、二人のどちらかに奨励のことばを語るように依頼します。パウロは、その依頼を引き受け、人々に向かって語りはじめます。パウロは、まず、はじめにイスラエルの歴史を振り返り、そこに現された神様の恵みを語ります。16~19参照。
神様は、ご自身の選ばれたイスラエルの民をエジプトの国の支配下から解放し、彼らを荒野に導かれます。イスラエルの民は、エジプトに滞在していた間に男子だけで6O万人となっていました。 ですから、彼らがエジプトを脱出した際、200万人以上の膨大な群れとなっていました。 神様は、その多くの民を荒野という何もない地に導かれ、彼らを試されます。彼らがまことの神様だけを信頼する者となるには荒野における40年の月日が必要だったのです。
イスラエルの民は、その後何度も神様以外のものに心を奪われ、神様に背を向ける態度を繰り返しとり続けます。神様は、イスラエルの民の背信の罪を何度も赦され、彼らを完全に滅ぼすことなく、彼らの子孫から救い主を誕生させてくださったのです。その救い主がイエス様であるとパウロは教えています。23参照。
神の選びの民であるユダヤ人は、そのイエス様を拒み、十字架にかけて殺すことを選択します。しかし、神様は、彼らの行動を予め知っておられイエス様の十字架の死を人類の救いのための賊罪の御業として受け取ってくださったのです。
エス様の死と復活により、罪ある人間がその罪を赦され、神の御前に義とされる時代が到来したのだとパウロは教えています。38~39参照。
ユダヤ人は、長い間、律法 を守ることにより、割礼を受けることにより、神様の御前に義とされ、救われると信じてきました。しかし、パウロは律法による義ではなく、信仰による義を宣言し、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも救いの門が開かれたことを人々に明らかにしていきます。この後、パウロは、信仰のみによって神様の御前に義と認められ救われると教えた為に迫害されるようになります。
パウロは、信仰のみによる救いを受け入れようとしない人々に対し、警告のことばをもって奨励の言葉を終えます。40~ 41参照。
パウロの奨励のことばを真摯に受け止め、神様の恵みにより救われ、神様の恵みにより生かされ、神様の恵みを日々体験できる幸いを感謝しつつ、神様の恵みによる救いを人々に証する者になっていきたいと願います。

栄光の神に

「初めに、神が天と地を創造した。」
        
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 創世記1章1節

 

<栄光の神に>           使徒acts 1 2 :1~ 2 5

私たちには、キリスト者として生きることにより、神様に栄光を帰するという 大切な使命が与えられています。愛された者には、愛してくださったお方を愛することが求められるのです。私たちは、イエス様を本気で愛する生き方を選択していると言えるでしょうか。へロデ王に対し、人々は本心を偽った行動をとっていました。2 0~2 2参照。人々は、自分たちが食料を得るためにはへロデ王を神としで祭り上げることに対し罪意識をもたないほど良心が麻陣していたのです。人間を神として崇めることほどまことの神様を冒涜する行為はありません。これは当時の人々だけの問題ではありません。なぜなら、私たちも本心を偽った行動を選択する場合があるからです。特にキリスト者は日本において少数派であり、八百万の神々の存在を認め合う社会において、唯一絶対の神だけを信じる私たちには生き辛さを覚えることが沢山あることは否めません。人々と同じように行動すれば何の支障もなく生活することができるでしょう。しかし、私たちはどのような状況から救い出されたのかを思い出さなければならないのです。私たちは、救われる以前、まことの神様以外のものに心を支配させ、それらのものの奴隷となり、罪を犯し続けてきた者たちです。ヘロデ王の心も、欲望に支配され権力を乱用していたのです。しかし、民衆の支持がなければその権力の座に居座り続けることはできません。ヘロデがユダヤ人のご機嫌を取ろうとしたのはその為です。私たちは、為政者たちと民衆の上におられるまことの主権者であられる神様を信じている者たちです。ですから、国家権カや世俗の力に媚びることなく、まことの神様だけを恐れ、神様が命じられることを,選択する者にならなければなりません。そして、自分がへロデ王と同じ心の状態になることもあり得ることを覚えましょう。私たちは弱い者です。油断していると本来神様だけに帰されるべき栄光を自分が受けることを許してしまうことがあるからです。人から称賛されたい。人々の注目を浴びたい。ヘロデ王は、神様に栄光を帰することを怠ることで自分の身に死を招くことになったのです。それとは対照的に使徒ヤコブは、まことの神様だけを信じる信仰の故に迫害に合い殉教することで自分の信仰を表明し、神様に栄光を帰したのです。ローマt4:7~l2参照。私たちは、自分の生き方が神様に栄光を帰すことに繋がっているかどうかを常に自問自答しながら、みことばに従って生活することを選択してまいりましょう。