小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

救いの宣言

「私たちは
 イエスが死んで復活されたことを、
 信じています。」
              
                

                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅰテサロニケ4章14節

 

<救いの宣言>           ローマromans 4:19~25

義なる神様は、人間の罪を見逃すことができません。罪とは、創造主であられる 神様の存在を無視して自分の生きたいように生きていることです。 罪から来る報酬は死です。ローマ6:23参照。とあるように、義なる神様は、罪に対しては厳しい罰をもって報いるお方です。しかし、義なる神様は、同時に愛なるお方でもあり、人間に無理な要求はなさいません。神様は、罪人である私たちを滅びから救うために、ご自分の愛するひとり子を身代わりに差出し、罪を贖うためのいけにえとなさったのです。そして、イエス様は、罪人である私たちの罪の罰を十字架にかかり、完全に受け尽くしてくださいました。
では、仮にイエス様が十字架に架かられ死んで葬られたままだったとしたらどう でしょうか。きっと自分の罪が本当に天の父なる神様に赦されていることの確信をもつことができないでしょう。ですから、私たちは、自分の罪が赦されたのかどうかを疑う気持ちが起きてきた時にイエス様のよみがえりに目を向けることが必要なのです。イエス様のよみがえりは、天の父なる神様がイエス様の十字架の贖いの死が人類 のすべての罪を贖うのに十分なものであったことの証明として人間に与えられたものです。なぜなら、天の父なる神様がイエス様の贖いのわざに満足されなかったとしたら、イエス様をよみがえらされなかったはずだからです。そして、イエス様がよみがえられなかったとしたら、私たちの罪は赦されることなく、そのまま残ることになります。しかし、イエス様はよみがえられたのです。ですから、私たちの罪がイエス様の流された血の代価によって贖われ、私たちの罪が完全に赦されていることをイエス様のよみがえりを通して確信することができるのです。
私たちは、もう何も,心配する必要はありません。自分の救いを疑わせるようなサタンの声が聞こえてきたとしても、もはやその声に耳を傾ける必要はありません。なぜなら、天の父なる神様は、イエス様の十字架の贖いの死を受け入れられ、満足された故に、イエス様を死者の中からよみがえらされたからです。 私たちに救いの確信を与えるためによみがえられたイエス様とイエス様を死の淵からよみがえらされた天の父なる神様の御業を賛美しつつ救いの確信を新たにし主の御前に歩ませていただきましょう。

ゲッセマネの祈り

「神は、実に、
 そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
 永遠のいのちを持つためである。」
              
                

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ3章16節

 

ゲッセマネの祈り>            マタイmatthew 26:36~46

エス様は、いつも神様に祈られるとき、御前にひざを屈め祈られたお方でした。 イエス様の祈る姿をいつも見ていた弟子たちは、イエス様がいつも以上に深く身を屈め、額を地に押しつけるようにして祈られる姿を見たのです。イエス様は、これから全人類の罪の罰をご自分が一身に負われることがわかっておられた故に、その使命の大きさに打ちのめされ、神様の御前にひれ伏さずにはいられなかったのです。
私たちの罪がイエス様にひざを屈めさせることになったのです。私たちは、その事実をどれほど重く受け止めているでしょうか。イエス様の苦しみを他人ごとのように考えていることはないでしょうか。イエス様が十字架に架かったのは、当時、イエス様を十字架にかけた人々の罪を赦すためである。私たちは、そのように長い間考えてきたのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス様の十字架の死は、私たちの罪の罰を負うためであると証言しています。ヘブル9:11~12参照。
エス様は、ご自分の前に置かれた人生最大の危機に直面し、ご自分の素直な願 いを父なる神様に告げられたのです。イエス様の願いは、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」というものです。この「できますならば」という言葉は、「できるかどうかわからない」という意味ではなく、神様には「可能なのだから」という意味です。イエス様は、父なる神様には、この苦しみの杯を取り除くことができるはずであると確信しておられたのです。イエス様の言われた杯とは、人間の罪に対する神の刑罰であり、神から完全に見捨てられることでした。イエス様は、人類を救う別の方法があるならばそれを示して欲しいと祈られたのです。
しかし、天の父なる神様は、祈りの中でご自身の計画をイエス様に明らかにされ、イエス様がそのご計画に従うことを求められたのです。神様のご計画に従うというイエス様の決意は、祈りを通して不動のものと変えられていきます。45、46節参照。イエス様の言葉には、もう何の迷いもありません。勝敗は、戦う前に決まっていたのです。祈る者は、勝利し、祈らない者は敗北を経験することになります。なぜなら、この後、弟子たちはイエス様を裏切り、逃げ出して行くことになるからです。
私たちも祈らずに誘惑に勝てる者ではありません。いつも、祈りつつ神様から力をいただき神様のみこころに従って行くことを選択されたイエス様の姿を思い巡らしながら、自分の願いよりも、天の父なる神様のみこころがなされていくことを心から望む者に変えてくださいと御前に祈る者になっていきたいと願います。 

主の御手に頼りつつ

「キリストは罪を犯したことがなく、
 その口に何の偽りも見いだされませんでした。」
                

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅰペテロ2章22節 

 

<主の御手に頼りつつ>              使途acts 11:19~21

ステパノの殉教をきっかけにキリスト者に対する迫害が強まり、エルサレムを離れた弟子たちは、逃亡した先々で伝道し続けます。初代教会の人々は、逞しく何度妨害されても宣教することを止めるどころか増々、イエス様の死と復活の意味を証していったのです。試練は、自分から求めるべきものではありませんが、神様は私たちにとって試練が必要であることを知っておられ、ある期間、私たちが試練の中に留まることを良しとされるお方であることも覚えたいと思います。初代教会の人々も、信仰の戦いを経験していたことが26節から伺い知ることができるのです。26節参照。
アンテオケにおいて弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれるようになります。キリスト者という呼び名は、ニックネームのようなものです。「キリスト者」とは、原語で「クリスティアノス」と言い、キリストの奴隷という意味があります。 初代教会の人々は、偶像崇拝に関係する行事に誘われる度に自分はキリストを信じたから、それらの行事に参加できないと断っていたのです。ですから、人々は彼らがいつも「キリスト」、「キリスト」と言って誘いを断ることからキリストの奴隷と同じだと彼らをクリスティアノス (キリストの奴隷)すなわちキリスト者と呼ぶようになったのです。また、初代教会の人々は、感謝と喜びに満ちて、宣教の業に励んだことでしょう。救いの喜びに満たされると人は驚くほど大きな力を発揮するものです。私たちの一番の喜びは、罪が赦され、罪の力から解放され、真の自由をいただいたことです。聖書は、私たちがイエス様を信じた時、新しく造りかえられたと断言しています。Ⅱコリント5:17参照。このみことばからイエス様を信じた時、私たちはイエス様と一緒に十字架に架かり、私たちの自我も共に死んだことが分かります。そして、イエス様が復活された時、私たちもイエス様と一緒に復活し、イエス様に従って生きる者と変えられた者たちなのです。自覚していなくても、みことばがイエス様を信じる者は新しくされた者であると断言しています。ですから、救われる以前の肉の思いに従って生きることをやめ、御霊に従って生きることを、選択していく者になりたいと願います。
私たちが、心から御霊に信頼する者となり、御霊の命じることを実行する時、そこに御業が実現していくのです。私たちの愛する家族が救いに導かれ、共に同じ神様を礼拝する者と変えられていくのを見させていただこうではありませんか。人間を救うのは、私たちの力ではありません。主の御手が私たちの上にある時にそこに御業が実現されていくのです。神様は、私たちを用いてくださるお方です。私たちが心から神様を信頼し、神様の約束を信じてみことばに従って生きる時、そこに神様が奇跡を現してくださいます。異邦人がまことの神様に立ち返って救われたように、家族がまことの神様に立ち返る日が来ることを期待して主の御手に頼りつつ宣教の業に参加して行こうではありませんか。