小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

信仰の本質とは

「父がわたしにくださった杯を、
 どうして飲まずにいられよう  」

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ18章11節

 

<信仰の本質とは>              使途acts 11:1~18

ペテロは、自分が異邦人のところに行ったことを兄弟姉妹に非難されると自分の 行動について冷静に説明していきます。確かに、ペテロのしたことは神様から与えられた律法に反することでした。しかし、律法で規定されていた異邦人との交わりの禁止命令は、すでにイエス様の十字架の贖いの業により解除されたのです。エペソ2 : 8~19参照。
エス様は、ユダヤ人と異邦人との間にあった見えない壁を打ちこわし、すべての人に福音が宣べ伝えられ、救われる時代が訪れました。しかし、すべての人に救いが及ぶことははじめから神様のご計画の中に含まれていたものだったのです。ただ、福音が伝えられる順番があったことを覚えたいと思います。まず、イスラエルの民に福音が届けられなければなりませんでした。その後、異邦人に福音が届けられ、異邦人の救いを見たユダヤ人が神様に立ち帰り、救いに導かれるという神様のご計画があったのです。ペテロは、神様から幻を通して異邦人のところに行くようにと示されると聖霊の声に従って行動していきます。ここに信仰の本質を見ることができるのです。ペテロは、自分の頭で考え納得したから異邦人のところに行ったわけではありません。彼のうちには異邦人に対する差別意識が根強く残っていました。 神の選びの民である誇りもありました。エルサレム教会の指導者としての立場もありました。しかし、それらのことよりも神様がお命じになられることを優先し行動していったのです。ペテロは、神様が異邦人にも自分たちに与えてくださった聖霊を送られたのだからそれが神様のみこころであると「アーメン」と言って受け入れたのです。これが信仰の本質なのです。
私たちもぺテロと同じだったはずです。イエス様を信じた時、すべてのことが分かっていたわけではありません。聖書に書かれてあることをすべて理解し納得したから洗礼を受けたわけではありません。信仰告白とは、聖書に書かれていることに対し同意することを意味しています。告白という言葉は原語でホモロゲオーといい、「同じことを話す」「同 意する」という意味になります。ですから、告白は、主観的な自分の信念ではなく、 聖書がイエス様を神の御子であると証言していることに対し「はい」と応答することが信仰告白となります。
自分は果たして信仰告白をした者としてふさわしい生き方を選択しているだろうか。ぺテロは、異邦人のもとに行くことを当然ためらったはずです。しかし、彼は自分の考えよりも神様のご計画に従う方を選択したのです。
目先の利益や苦難に目を奪われることなく、もっと先を見て自分たちのなすべきことが何なのかを選択する者になりたいと願います。
朽ちることのない冠をいただくことができる者は、信仰の故に生じる迫害と戦った者だけです。イエス様にお会いした時によく戦ったね。あなたにいのちの冠(黙示録2 :10)を与えようと言っていただけるように日々、自分の行動を祈りつつ選択していこうではありませんか。

すべての人の主

「ホサナ。祝福あれ。
 主の御名によって来られる方に。
 イスラエルの王に。  」

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ12章13節

 

<すべての人の主>              使途acts 10:34~48

ペテロは、自分が体験したことを通して福音がすべての人々に平等に宣べ伝えら れる時代が訪れたことを悟ることになります。ペテロ自身も、ユダヤ人たちも長い間、救いに与るのは自分たちユダヤ民族だけに与えられた特権であると思い込んで きました。 ペテロは自分の間違った認識を悔い改め、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、すべての人に救いのチャンスが到来したことを説教していきます。
ペテロの説教の内容は、イエス様が旧約時代から預言されてきたところのメシヤ であられることを自分たちが見て体験してきたところから証言し、イエス様が救い
の御業を成し遂げられるために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえられ、裁き主として再び地上に戻って来られ、そのイエス様を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられるというメッセージです。
エス様は、言われました。 「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」マルコ2:17参。
神様の義の基準に照らされる時、すべての人間は、罪人となります。 罪とは、創造主であられる神様の存在を無視して、自分勝手に自分の善悪の判断基準で生きることです。私たちはその罪の性質を生まれながらにもっているのです。 アダムの子孫であるかぎり例外はありません。すべての人は、罪をもつ存在として地上に誕生してくる故に、すべての人は救いを必要とする存在となります。ペテロは その意味を悟り、イエス様は、すべての人の罪を贖うために来てくださった主であると宣言したのです。ですから、私たちは、それぞれが遣わされていく家庭、職場、 学び舎、地域においてそこに暮らす、すべての人々に福音を届けるために選ばれた者たちであることを覚えたいと思います。今、私たちがこの時代にこの場所に生かされているということは偶然ではありません。神様のご計画の中で私たちでなければ伝えることのできない人々がいます。福音を必要とする人々がいるのです。どんな人でも福音を必要としていない人などいません。人間であるかぎり、罪をもつ存在である以上、その罪の問題が解決されないかぎり、その人が救いに与る道はありません。私たちはとても重要な任務をイエス様から託されているのです。すべての造られた者に福音を届けること、それが私たちの使命です。この使命に生きる時、私たちに生きがいが生じてきます。なぜなら、目的のない人生ではなく、目的のある意味のある人生となるからです。全世界をご支配されるまことの王であられるイエス様から、私たちはその大切な任務をいただいているのです。これ以上に光栄な任務が他にあるでしょうか。全力でこの任務を果たすために、あらゆる機会をとらえ、与えられている能力を最大限に活かし、自分にできることはすべてやり尽くしましたとイエス様に報告できるように悔いのない毎日を過ごしてまいりましょう。

福音宣教に関わる私たちの務め

「この女は、自分にできることをしたのです。
 埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって
 油を塗ってくれたのです。  」

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マルコ14章8節

 

<福音宣教に関わる私たちの務め>          使途acts 10:23~33

福音宣教は、救われた者にゆだねられた大切な使命です。イエス様は、言われました。 マタイ2 8 :18~2 0参照。イエス様を主であると告白した私たちには、主であるイエス様のご命令に従う義務があるのです。ですから、私たちは、福音宣教に関わることに積極的に参加していくことが求められています。
ペテロは、律法の規定が変えられたことを幻と聖霊の声により示され、目の前に現れたコルネリオの使いの報告により、神様の導きを確信し旅立ちます。異邦人との交わりを禁じられていた彼らにとって異邦人のもとに自ら足を向けることは容易なことではありません。しかし、彼らは勇気を出して神様の導きに従う道を選択したのです。それは、福音を宣教するために日本の国に足を運んだ宣教師たちも同じ心境だったのではないかと想像できます。今から126年前に住み慣れた母国を離れ、船で何日もかかる異国の地である日本の国に来てくださった同盟教団の創設に関わった宣教師たちの姿とぺテロたちの姿が重なります。二度と母国に戻ることができないかも知れない。日本に渡ることは計り知れない犠牲と決意がその行動の背後にあったことを思わされます。自分が彼らの立場であったなら果たして同じように日本に向かう船に乗る決断ができるだろうか・・・宣教師たちの決断の背後に神様の確かな導きがあったことを確信させられます。なぜなら、彼らも私たちと同じ弱さをもつ生身の人間だったはずだからです。まだ救われていない家族もいたことでしょう。しかし、彼らは主の宣教命令を優先したのです。
福音は、すべての造られた人間に必要なものです。神様は、ご自身が創造されたものを愛しておられ、それらの人々が救われるのをお望みになられるお方です。イエス様の弟子たちがいのちがけで宣教して行ったように、宣教師たちはイエス様の宣教命令に従って文字通り世界中に福音を広めることに命をかけたのです。私たちの救いのためにも多くの犠牲が捧げられてきていることを忘れてはならないのです。今度は、私たちが受けてきたその愛をまだ福音を聴いていない人々のところに運んでいく番となります。
では、今日の聖書箇所から私たちが学ぶべき大切な点は何でしょうか。それは福音宣教に関わる私たちの務めです。みことはを取り次ぐ牧師や伝道師の責任は、神様から与えられたみことばを誤りなく、余すところなく語り尽くすことにあります。みことばを聞く信徒の皆さんの責任は、神様によって立てられた説教者が語ることばを神様からのものとして、真剣に耳を傾けることにあります。それが福音宣教に関わる私たちの務めなのです。使徒10:3 3参照。
コルネリオたちは、神様から遣わされたぺテロが語ることを一つも聞き逃すまいと全神経を集中させ、期待をもって御前に出ていました。 私たちも、彼らの態度に倣い、毎週、礼拝の中で語られる説教に耳を傾ける者でありたいと願います。そして、自分のなすべき事柄が説教により示されたなら素直にみことぱに従って生活する決断を新たにいたしましょう。