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小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

主に用いられる器

「だれでも自分を高くする者は低くされ、
 自分を低くする者は高くされるからです。」
                                

                     f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ18章14節

 

<主に用いられる器>             使途9:10~19

主に用いられたアナニヤは、どのような人物だったのでしょう。22章12節参照。アナニヤは、律法を重んじる敬虔な人でした。これはパウロのようにパリサイ派に属する人であったということではありません。彼は、神様から与えられた律法を重んじ、神様の命令に従って生きていた素朴なユダヤ人だったということです。しかし、ただ律法を重んじていただけの人ではなく、ユダヤ人全体の間で評判の良い人であったと紹介されていることから言葉と行動に偽りがなく、率先して人々の益となること、人々の徳を高めることになることなどを実践していたのでしょう。神様は、そのような人を選び。サウロのところへ遣わされるのです。

では、アナニヤは神様のご命令にどのように応答していったのでしょうか。10~14節参照。神様はアナニヤにサウロのところに行って、彼の上に手を置いて祈ることを命じます。アナニヤは、自分の耳を疑ったことでしょう。どうして、私がサウロのところに行って彼の目を開くために祈らなければならないのか。そんなことをしたらどうなるのか。彼は心配したことでしょう。13~14節参照。
彼の心配は当然のことです。サウロは、キリスト者の敵であり、彼によってどれほど沢山の兄弟姉妹が囚われたか分かりません。サウロの行為によって苦しんでいた兄弟姉妹がいたはずです。アナニヤは、その事実を知らされていました。そのサウロの目を開くことなど正気の沙汰ではありません。目が見えなくなったサウロを助けるなどと考える人は誰もいません。アナニヤもサウロに苦しめられた人たちから恨まれるようなことをしたいとは望まなかったはずです。しかし、神様はアナニヤに神様のご計画を明らかにしてくださいます。15節参照。
アナニヤはその困難な命令に従っていくのです。ここにアナニヤの信仰が現れています。アナニヤは、神様から名前を呼ばれた時、「主よ。ここにおります。」と即答します。旧約聖書にイザヤという預言者が登場しますが、彼も神様から召された時、同じように主に対し、「ここに、私がおります。」イザヤ6:8と応えています。
「ここにおります。」この言葉は、召使いが王の傍でいつも王の命令に従う覚悟ができている人が使う言葉なのです。アナニヤは、その意味で神様の命令であるならばどんな困難な命令であっても、いつでも従う心の備えができている人であったことが分かります。私たちも、アナニヤのようにいつでも神様の命令に従う備えをしていくものでありたいと願います。神様はいつでも行く備えのある人を選んでくださり派遣してくださるのです。
アナニヤは、神様を信頼してサウロのもとに行きます。神様は、ご自身を信頼する者の期待を裏切られるお方ではありません。サウロが変えられたように福音を受け取った人々が変えられることを期待し、勇気をもって神様の命令に従って出て行こうではありませんか。そして、神様が成してくださった御業を共に喜ぶ者になりたいと願います。

 

新生

「求めなさい。そうすれば与えられます。
 捜しなさい。そうすれば見つかります。
 たたきなさい。そうすれば開かれます。」
                                

                     f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ11章9節

 

<新生>                使途9:1~9

サウロは、キリスト者を捕え、牢に入れることが神様に喜ばれることであると信じ、キリ スト者撲滅に燃えていました。1節と2節参照。神様は、ご自身に敵対する者であっても、見捨てることなく、救われるチャンスを提供してくださるお方です。イエス様も、ご自 身を言葉の罠にかけ訴える口実を作ろうと企む祭司長やパリサイ派に属する人々や律法学者に対し、彼らの罪を指摘し、悔い改めるチャンスを提供されたお方です。イエス様は、サウロにも悔い改める機会をお与えになり彼を通して多くの人々が神様の恵みに与る者となるためにサウロを選んでおられたのです。15節参照。それは、私たちも同じです。神様は、世界の基の置かれる以前から私たちを選び、私たちを救うためにあらゆる事を備えてくださるお方です。エペソ1:4~5節参照。なんと有り難い事ではないでしょうか。
神様にとって私たちはそれほど重要な存在として目を留めてくださり、すべてのことを益としてくださるほど、私たちは神様から愛されています。
サウロもまた、神様から愛されていた人です。サウロは、自分が間違ったことしているという自覚はありません。神様の御名を汚す悪しき輩を捕えることは正しいことであり、神様に喜ばれることであると信じていました。サウロは、イエス様と出会い、視力を失い、自分で歩くこともできない無力な状態になり、自分の誤りに気づき始めるのです。聖書は、私たちは、イエス様を信じた時、霊的に新しく造り替えられたと宣言しています。Ⅱコリント5:17参照。
私たちは 、もはや自分の勝手な判断で生きる者ではなく、神様のみこころを求め、みこころに従って生きる者と変えられた者たちです。救われる以前と同じように、古い人に従って生きなくてもよいのです。私たちの主人は、イエス様に代わりました。もうサタンの奴隷となって罪を犯し続ける必要はありません。サタンの支配下から救い出された者として、神の子とされたことを自覚して神の子にふさわしい生き方を選択する者になりたいと願います。
サウロの新生は、イエス様との出会いによって実現しました。サウロは、救われる以前、救い主が来られることを旧約聖書を通して知っていました。しかし、救いはイエス様との個人的な人格的な出会いを通して起こるものなのです。イエス様は、サウロに言いました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」わたしとあなたの関係になってはじめて私たちは、イエス様と出会うことになります。イエス様が十字架に架かられたのは、自分の罪のためであると信じた時、私たちは、イエス様と本当の意味で出会うことになるのです。イエス様は、あなたを愛しているのです。神様から愛される資格なんてないと思って生きてきた私たちですがそれは私たちが勝ってに思い込んでいることであって神様は、はじめからずっと「わたしはあなたを愛している」と言い続けてくださっています。 神様から愛されている自覚を新たに神の子としてふさわしい生き方を選択し、神様からの祝福を受け取る者になっていこうではありませんか。

 

御霊の導きに従って

 「天にいます私(わたくし)たちの父よ。
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが点に行われるように
  地でも行われますように。」
                            

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plain  マタイ6章9~10節

 

 <御霊の導きに従って>          使途8:26~40

ピリポたちのよるサマリヤ人に対する宣教は、成功し救われる人々が与えられました。 ところが神様は、ピリポに人々の住む町や村にではなく荒野の道に行けと命じるのです。
ピリポは、その命令に従って人のいない荒野に向かって進みます。 私たちも、ピリポのように御霊の導きに従って新しい年を歩み始める者になりたいと思います。神様は、ピリポが宣教する相手を予め用意しておられ、福音がはるか遠くの異国の地であったエチオピアに届けられるご計画をもっておられたのです。
私たちは、年のはじめにいろいろなことを計画します。計画すること自体は、良いことです。しかし、神様が何を自分にさせようと考えておられるのか。静まって考える必要があるのです。ピリポは、祈りつつ宣教していたことでしょう。神様が自分を通して福音を伝える相手を必ず備えてくださると信じて荒野の道に向かいました。私たちも、偶像崇拝に満ちた荒野のような社会に福音を携えて派遣されていきます。キリスト者として生きることの困難な日本の社会においてどのように生きるか。私たちは、神様から期待されているのです。
ピリポは 、神様が与えてくださった伝道のチャンスを逃すことなく、適格に状況を捕え、エチオピアの宦官が必要としていることを察知し、聖書が教えているメシヤについて説き明かします。 聖書が伝えようとしていることは、イエス様が旧約の時代から預言されてきた救い主であることです。イエス様を神の御子であると信じるならば誰でも救われます。ユダヤ人にとって考えられなかった恵みの時代がイエス様と共に到来したのです。ユダヤ人は、自分たちだけが特別に神様から選ばれた民であり、自分たちだけが救われると信じていました。しかし、イエス様が十字架にかかり全人類の罪の罰を受けてくださることにより、すべての造られた者に救いの門が開かれたのです。ユダヤ人の多くは、今も自分たちだけが救われ、異邦人は滅びると考えています。しかし、福音は確実に異邦人に届けられ、救われる人々が起こされているのです。私たちも積極的に福音を伝える人になりたいと願います。ピリポは、宦官に福音を伝えたらその結果、どうなるか考えながら宣教したわけではありません。ただ御霊が導くまま、相手を選ぶことなく、神様が出会うことを許してくださった人に福音を伝えて行ったのです。神様は、私たちにも私たちでなければ伝えられない相手を備えてくださるお方です。それぞれが生活している家庭、地域、職場、学び舎、そこに福音を必要としている人々が待っています。私たちが本気で神様に従って生きる時、そこに伝道するチャンスが与えられるのです。神様の私たちに対する期待は決して小さいものではありません。神様から選ばれ、神様から愛されているが故に、その期待も大きくなります。神様から受けた恵みの大きさを自覚して神様を愛し、人を愛する者になっていきたいと願います。その為にも
、神様との交わりの時間を意識して作り、御霊の導きを祈り求めてまいりましょう。