小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神が愛である所以

 「光はやみの中に輝いている。
  やみはこれに打ち勝たなかった。」
                            

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plain  ヨハネ1章5節

 

 <神が愛である所以>         ピリピ2:1~11

イエス様のことを私たちは救い主と呼びます。では、イエス様は何から私たちを救うために来られたお方なのでしょうか。この地上から戦争を無くすためでしょうか。餓えや貧しさから人々を救うためでしょうか。家族の間に平和をもたらすためでしょうか。いろいろ考えられますが一番の目的は、「罪をもつ人間を滅びから救い出し、罪の力から解放する」ためです。聖書が教える罪とは、目に見えない神様の存在を無視し、自分勝手に自分の生きたいように生きていることです。造られた者が創造主であられる神様から離れ、自分勝手に生きていること自体が罪の本質です。大切な点は、自分と神様との関係です。私たちが自分の基準で自己中心な考えで生きることが「罪の本質」なのです。トラブルの多くは、私たちが神様の命令に従わず、自分勝手な判断で行動することから生じてきます。神様は、自己中心に自分勝手な判断で物事を捉え、滅びに向かって歩んでいる私たちを「正しい道に導くために」神の御子であられるイエス様を地上に遣わしてくださいました。
目に見えることしか受け入れようとしない。自分の考えだけが正しいと先入観や偏見だけで物事を判断しやすい私たちを滅びではなく、永遠のいのちに至る道に導くためにイエス様は私たちの住む世界に来てくださったのです。聖なるお方が義なるお方が無限であり、永遠であられるお方が有限な者となり、穢れ果てた人間の世界に来てくださいました。これは実に驚くべき出来事です。人間の想像を超えた事を神様は、計画され、実行に移されたのです。ピリピ2:6,7参照。
私たちにとって、クリスマスは喜ばしい日でありますが天の父なる神様にとっては愛する我が子が苦しみの人生を歩みはじめた悲しみの日でもあります。なぜなら、イエス様は、全人類の罪の罰を一身に負われるために地上に誕生されたお方だったからです。十字架の苦しみは、人間の想像を遥かに超えたものです。単に、肉体的な苦しみ、精神的な苦しみだけの問題ではありません。イエス様がゲッセマネで血の汗を流され、祈られたのは霊的に孤独な状態とされることを意味していたからです。天の父なる神様から「見捨てられる」という孤独をイエス様は何よりも恐れたのです。
私たちの「救い」は、イエス様の犠牲のうえに備えられたものであることを忘れてはならないのです。私たちが日々、簡単に犯している罪のひとつ一つがイエス様の十字架の苦しみに直結しています。私たちが罪を犯す度にイエス様の手に太い釘が撃ち込まれるのです。本来ならば、私たちが受けなければならない苦しみをイエス様は私たちに代わって受けてくださっています。罪を赦されるということは、その背後にイエス様の犠牲があり、イエス様を地上に遣わされた天の父なる神様の犠牲があることを覚えたいと思います。この「自己犠牲の姿」こそ、神が愛である所以です。私たちに天の父なる神様と子なる神様の自己犠牲の愛を明らかにしてくださった聖霊なる神様に感謝しつつ、クリスマスの日をお祝いいたしましょう。

 

神が用意された確かな救い

「この方を受け入れた人々、
 すなわち、その名を信じた人々には、
 神の子どもとされる特権をお与えになった。」
                            

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plain  ヨハネ1章12節

 

 <神が用意された確かな救い>      へブル10:1~10

イエス様を信じたばかりの頃、自分は本当に救われたのだろうかと不安になったという記憶をもたれる方がおられるでしょうか。私たちは、救われた後も罪人に変わりはありません。イエス様を信じて心にお迎えしたら、罪を犯さなくなるわけではないからです。旧約時代の人々も、モーセの律法に従って毎年、大祭司が人々の罪を贖うために動物を犠牲として捧げていました。しかし、動物の犠牲では人々の心のうちから罪責感を拭い去ることはできなかったのです。また、天の父なる神様は、罪に対して完全な血による贖いを求められるお方です。どんなに多くの動物の血が捧げられても、どんなに人々が自分のもっているものの最高のものを捧げても、それによって満足されるお方ではありません。へブル10:4~9参照。

天の父なる神様の罪を犯した人間に対する要求はその人のいのちです。「罪から来る報酬は死です。」とあるように罪人として生まれ、日々、罪を犯し続けている人間の行き着くところは死であり、永遠の裁きです。罪人として生まれ、罪を犯し続けてきた者がまことの神様を信じる者となり、その神様が用意された救いを受け入れるということは奇蹟以外の何ものでもありません。
目に見えるものしか信じない。この世でいかに栄えるか、権力を求め、地位や人々からの称賛を得るために必死に生きてきた者がそれらのものに関心を示さなくなる。それは人間業ではありません。まさに神業です。神様だけが罪人である人間を救うことができます。
私たちに聖霊を与え、信仰を与え、罪の自覚を与え、信仰告白に至るまで導いてくださったお方の存在がなければ「誰ひとり救われる人はいない」のです。自分の力や努力で救いを勝ち取ったと言える人はいません。そして、自分の救いの確信を自分の感情においてはならないのです。救われた確信を自分の感情に置くならば、極端な話し、昨日は救われている気がしたが今日は救われていない気がするという事になってしまいかねません。移り変わりやすいものを救われているかどうかの基準としてはなりません。救いの確信の根拠は聖書のみことばだけです。なぜなら、聖書のみことばだけは永遠に変わることなく、残り続けるものだからです。そして、聖書のみことばが本当の意味で人を救い、人を生かします。みことばと共に働かれる御霊によって人間は救われるのです。ローマ8:14~16参照。
私たちは、御霊すなわち聖霊の働きにより、イエス様を神の御子であると信じる者とされ、その信仰によって神の子という身分が与えられました。ですから、神の子という身分は、私たちが罪を犯したからと言って変わることのないものであることがわかります。親子の関係を考えてみればよく分かるように子どもが親に反抗したからと言って親子の関係が変わることはありません。子どもが自分の否を認め、親のもとに帰るならば、親は子どもを赦し、受け入れ、親しい関係を回復することができるのです。ですから、安心して天の父なる神様のもとに立ち帰り続けましょう。

 

信仰によって生きる

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはこの方の栄光を見た。
 父のもとから来られたひとり子としての栄光である。」             

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plainヨハネ1章14節

 

 <信仰によって生きる>      マタイ2章1~12/へブル11章1

神の御子を礼拝するために多くの困難を乗り越えてエルサレムに東方の博士たちがやってきました。神の選びの民であるユダヤ人が無関心であった一方でこのように救い主の誕生を心から喜ぶ人々がいたことは私たちにとって大きな慰めです。博士たちは、時間と財と惜しむことなく、自分の身の安全を顧みることもなく、一身にただ、救い主を礼拝するために全力で旅を続けてきました。私たちはどうでしょうか。博士たちの信仰者としての態度に習う者になりたいと願います。<br>
博士たちは、イエス様を礼拝するために、財産を費 やし、時間と労力を傾け、はるばる異国の地から足を運んだのです。私たちも、一回、一 回の礼拝を大切にし、神様との会見の場に臨むことを意識し、神様からのメッセージを聞き逃すことなく受け取り、みことばに従う決断をしていく者でありたいと願います。
また、博士たちは、イエス様を単なるユダヤ人の王として迎えたわけではありません。 博士たちは、イエス様を全世界の支配者として礼拝するために旅をして来たのです。博士たちは、幼子の前にひれ伏して拝んだと書かれてあります。大の大人が幼子の前に頭を地に擦り付け礼拝した態度の中に博士たちの信仰が現されています。へブル11:1参照。<br>
博士たちは、異常に光り輝く星の出現にただならぬ事態が起きたことを確信し、全世界の支配者の誕生を信じてエルサレムまで旅をしてきました。信仰によって生きる人は、人間の経験においては未来のことであっても信仰によって現在のものとすることのできる人です。目に見えないものを、信仰の目で見ている人です。博士たちは、信仰によって目の前にいる幼子の中に目に見ることのできない神様の臨在を確信することができたのです。私たちも、天国があることをみことばを通して確信し、目に見ることのできない天国を信仰の目で見て、そこに向かって生きています。博士たちは、自分たちの目的を果たすことができたことを神様に感謝し、自分の国に帰って行きました。そして、博士たちは自分の国で救い主の誕生を人々に証したことでしょう。星に導かれたことや旧約聖書によりメシヤ がどこでお生まれになるかを知ることができたことや、夢でヘロデ王の陰謀について教えられたことなどを人々に伝えたことでしょう。<br>
私たちも、救い主に出会い、滅びから永遠のいのちに移された者たちです。自分がどのようにして救われたのかを人々に証しできるように自分の救いの証をもう一度書いてみましょう。書くことにより、私たちがいかに神様の導きの中に生かされてきたのかを再発見することができます。アドベントのこの月を神様の不思議な導きにより、救いに導かれた自分の歩みを振りかえりながら神様に心からの感謝をささげつつ過ごしてまいりたいと願います。<br>
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